私が唱えているのは、コミュニティーや市民としての義務、市民間の相互責任に重きを置き、道理にかなった問いかけや議論を展開すべきだということである。市民が共通善を目指し、人生に意味を与えてくれるような伝統を真剣にとらえるべきだ、と言っているのだ。それがコミュニタリアニズムである。

健全なコミュニティーにとって、道理にかなった議論はきわめて重要だ。しかし、たとえば米国政治の世界では、議会や公聴会といった「熟議」の場が「ロビー活動」の場と化しつつある。議論や異論、論争があふれるなか、人と「やり合う」ことに血道を上げる姿が目立つ。

医療保険制度改革をめぐる論議が好例だ。反論や怒号が飛び交い、人の意見に耳を貸さず、相手を尊重しない。

米国人は、議論の仕方を向上させる必要がある。お互いを侮辱し合ったり、責め立てたりと、討論の質が低く、中身がお粗末すぎる。

オバマ大統領は、選挙戦で見せた「教育者」としての指導的役割をいま一度取り戻し、大きな道徳的問いかけをめぐる議論に市民を取り込んでいくべきだ。民主主義社会で効果的に指導力を発揮するには、そうした市民教育が欠かせない。

政治の世界で健全な「熟議」が機能するためには、いくつもの関門がある。