あの時の野次は今も心の真ん中に

これには後日談がある。

大学を卒業後、三菱自動車工業京都を経て神戸製鋼コベルコスティーラーズ(当時)に入社した私は、試合が終わったあとだったかに、ひとりのファンから声をかけられた。「野次にもめげずキックを蹴り続けたあの試合を観てファンになりました」と。そう言われて思わず目を丸くし、たとえではなく文字通りに鳥肌が立った。

野次に腹を立て、思うようにキックできない自分に苛立ち、そして内心は不安でいっぱいだったあの日の私を、観客席のどこかから見てくれていたこと、そしてその姿を見てファンになってくれたことに、報われたような気持ちになった。

数年を経たのちに贈られたこのギフトは、その後の人生を左右するほどの価値観の変貌を私にもたらした。観客は、トライなどの派手な場面だけを見ているわけではない。コツコツやっていればどこかで必ず誰かが見てくれている。この紛れもない実感は、80分間すべてのプレーに気が抜けないことはもちろん、試合に至るまでのウォーミングアップや普段の生活での立ち居振る舞いにも気を配る必要性を思い起こさせた。

隅々にまで気を配れたかどうかはファンに訊いてみなければわからない。だが、少なくともこの心がけはそこから引退するまでずっと手放さなかった。いや、引退したいまになってもなお、心の真ん中にある。

リスペクトのあるブーイングは観客に許された権利

三木谷氏は、過激化する応援に歯止めをかけるべく先の提案に至ったのは想像に難くない。敵対する相手チームへの、思わず耳を塞ぎたくなるようなブーイングは確かに避けるべきだ。相手を貶めてまで贔屓チームの勝利を渇望するのは明らかに行き過ぎだからである。とはいえ、ブーイングそのものをやめるのはどうかと思うし、贔屓チームに対する野次もまた然りだ。

節度を保ったリスペクトとユーモアに溢れたブーイングや野次は、スポーツを楽しむ人たちに許されている権利である。先に述べた私の拙い経験からすれば、野次は選手を励まし、パフォーマンスそのものを高めうるし、また選手生活をも彩りうる。

問題は、その程度である。誹謗中傷や人権侵害とも取れる尖った言葉遣いではなく、熱烈に応援するがゆえについ口をつく、叱咤激励や発破をかける意味でのブーイングや野次は、スポーツからなくすべきではないと思うのだ。