60歳で定年を迎え、65~70歳まで再雇用されるケースが増えている。雇用は確保されるものの、安い給料に不平不満をこぼす人も少なくない。家庭の事情で幼少時から苦難な生活を強いられ、働くことを余儀なくされたフリーライター歴45年の野原広子さん(66)は、「私の原点はパシリ。どんな苦難でも受け入れ、カネがないなら稼げばいいという考えを現在も貫いている。そんな姿勢を定年後の人生を歩む方も持つべきかもしれない」という――。
野原広子さん
撮影=東野りか

幼いころから隣家の“パシリ”をして小遣い稼ぎ

週刊誌『女性セブン』での「富士山登山」や「AKBなりきり」などの体当たり取材が人気を博す、自称“オバ記者”として知られるフリーライターの野原広子さん(66)は茨城県桜川市出身。東京中心部から100キロ圏内ほどの小さな町で高校卒業まで暮らした。3歳で実父を亡くし、家族は継父と母と弟2人の計5人。継父とはソリが合わず、絶え間ない喧嘩や困窮生活から、早いうちに独立心が芽生えたそうだ。

「家にお金がないので、小金をどうやって稼ぐかいつも考えていました。隣家のおじさんのタバコを買いに行ったり、養鶏場で卵を集めたりしてお駄賃をもらうことからスタート。今でいう“パシリ”ですね。高校進学時に『中卒で働け』と継父に言われましたが、反発して、商店の住み込み店員になりました。働きながら地元の農業高校に通ったのです」

野原さんが高校に入ったのは昭和40年代後半で、世間に貧しさが色濃く残る時代。それでも、1年だけだったが住み込み勤労学生の野原さんは、周囲の同級生たちから浮いた存在だったそう。ただその頃から「人は人、自分は自分」「金はなくとも、働けばなんとかなる」といった人生のスタンスが確立した。

30代で社長になるが、経営のセンスはまったくなし

高校を卒業した後、物書きを目指して東京のジャーナリスト専門学校に入学。ここでもウェイトレスをしたり倉庫で働いたりしながら通学するが、学費が続かず中退。雑誌編集部のバイトを経て、30代で出版社の下請けである編集プロダクションを興す。1990年代の出版界は今ほど斜陽産業ではなかったので、いわゆる“編プロ”でも仕事はたくさんあった。だからそれなりに稼ぐことができたはずだが……。約8年間の社長時代はどうだったのか。

「稼いだお金は私に全てが入るわけはなく、スタッフへの原稿料の支払いや家賃・光熱費の固定費でいつもアップアップ。小さい事務所なのに、机ごとに固定電話や新しいコピー機をわざわざ置くなど無駄な支出が多かったです。でも、そこまでしないと怠け者の私は働く意欲が湧かないと思っていたんです。それに、そもそも私には経営センスがない(苦笑)」

どハマりした麻雀で、現実逃避の毎日

出版社からの支払いだけでは経営資金が足りず、借用書を何枚も書きまくり、消費者金融にも借金をした。自転車操業の毎日を送り、挙げ句の果てにギャンブル依存にも陥る。特に麻雀にどハマりし、仕事帰りに雀荘に行って徹マン。翌日に仕事がなければそのまま雀荘に居続けるという日々を送っていたのだ。

「きっかけは、真田広之さんや大竹しのぶさんらが出演したモノクロの名画『麻雀放浪記』です。映画の世界観が本当に格好良くて。しかも『牌の上がり方を知っていたら、もっと映画の良さが分かる』と知人に言われ、雀荘に通い出したのです」

麻雀などの賭け事はビギナーズラックがあり、怖いもの知らずの初心者が勝つことがある。野原さんはまさにこれ。

「また、編プロの経営やらわずらわしい人付き合いから逃れたいという気持ちもあったんです。会社に行けば、向き合わなければならない現実が山のようにあるけれど、麻雀はそこから逃避させてくれる。しかも面白い経験ができるのだから、どうしても足が向いてしまいます」

しかしそんな幸運は長く続かない。ビギナーズラックの興奮が忘れられず、勝つまで(負け飽きるまで?)打ち続けるので、財布事情はさらに厳しくなる。せっかく立ち上げた会社も清算に追い込まれた。