一昔前は「子育てにまつわる責任」をうっすら分散できた

「ちゃんとした親として世間に顔向けする」というハードルの高さは、公共空間でのマナーに限った話ではない。教育を含めた子育て全般にも言えることだ。

親になったからには、栄養や健康にも最大限気を配るちゃんとした生育環境を整えることから始まり、塾や習い事などちゃんとした教育投資を行うことを求められ、ちゃんとした就職先を見つけて独り立ちするまで面倒を見てようやく「ちゃんとした親」とみなされる――それらは核家族化した現代社会の親たちが背負う責任としてはあまりにも“重い”ものだ。

ひと昔前の親たちは、一人当たりが背負う「親の責任」がよくもわるくももっと小さいものだった。かつては核家族化が進んでいたとはいえ、周囲には親族や兄弟がそれなりに暮らしていて、あるいは隣近所の住民ともつながりがあり、子育てにまつわる責任をうっすらと分散させることが可能だった。しかし現在はそもそも親とも兄弟とも近くで暮らしておらず、近所づきあいもなくなっており、しかも子ども一人当たりにかける投資は時間的にも経済的にも文化的にも高まっており、それらを夫婦だけで全うできる人はそう多くなくなっている。

家族三世代が集うリビングで子供がブロック遊びをしている
写真=iStock.com/Yagi-Studio
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中国や韓国で苛烈化する「学歴競争・受験競争」

中国や韓国で強烈に進行する少子化はSNSでは冗談めかしたニュアンスを含みながら「フェミニズムが侵出したせいだ」というのが定説になっている。もちろんそうした思想が若年層で流行していることと一切関係していないとは言わないが、しかし実際のところは、日本とは比べ物にならないスケールで苛烈化している学歴競争・受験戦争を背景とした「親としての責任(≒子どもへの投資)」の青天井の高まりにもはやついていけない人が増えているからでもあるだろう。

中国や韓国の若者は、自分の親世代が自分に信じがたい質量の教育・文化投資を行ったのをその身をもって知っている。それはつまり「自分が子どもをつくれば、親がかつて自分にやってくれたことをそのまま再現しなければならない」という未来図をダイレクトに共起する。わかりやすくいえば「すべてを捧げてでも受験戦争の勝者となる」というデスレースに今度はプレイヤーとしてではなく親としてもういちど参加しなければならないことを意味しており、それが今どきの若者たちにとっては「子どもをつくるのはコスパが悪い」という判断をより強化しているということだ。

日本でも空前の「お受験ブーム」に象徴される教育投資レースが近頃は苛烈化しており、中国や韓国と同じ方向性で「親をやることの重責」が高まっている傾向にあるといえよう。「子どもをつくる=子どもの人生を勝ち組にする責任を負わなければまともな親ではない」という前提が内面化され、なおかつ子ども同士の競争が激化している以上、自分の人生のすべてをかけて子どもを一人前のエリートに育てなければ「親としてのまともな責任を果たしていない」と見なされる――そんなプレッシャーを受けてしまう。