「民主主義」とはどのような考え方なのか。批評家・哲学者の東浩紀さんは「リベラル派はよく『本当の民主主義』といった言いかたをする。けれども、本当の民主主義なんてない。民主主義の本質は『みんなでルールをつくる』ということにある」という――。(第2回/全2回)

※本稿は、東浩紀著『訂正する力』(朝日新書)の一部を修正・再編集し、編集部で加筆したものです。

ルイス・C・モラー(1855–1930)『異なる意見』、ハイ・ミュージアム(米ジョージア州アトランタ)蔵
ルイス・C・モラー(1855–1930)『異なる意見』、ハイ・ミュージアム(米ジョージア州アトランタ)蔵(写真=CC-PD-Mark/PD-Art/Wikimedia Commons

日常のなかの無意識とメタ意識

訂正は、だれもが日常的にやっている行為です。その意味に自覚的になり、現実の変革に活かそうというのが、『訂正する力』の提案です。

そもそも訂正とはなんでしょうか。結論から記すと、訂正の本質はある種の「メタ意識」にあると言うことができます。自分が無意識にやってしまったことに対して、「あれ、違うかな」と違和感をもったり、距離を感じたりするときに、訂正の契機が生まれます。そういう距離感がなければ、そもそも訂正の必要がありません。

ぼくたち人間は、多くのことを無意識にこなしています。水を飲むときにコップをもつ、家を出るときにドアに鍵をかける、電車に乗るときに改札でスマホをかざす……そういうときはふつうなにも考えていません。

では、どういうときに「考える」ようになるかというと、無意識にやっていたことがうまくいかなくなったときです。いつもあるはずの鍵がないとか、いつもあるはずのスマホがないとかいうことです。それは体の不調のせいかもしれないし、外界の状況が変わっているサインかもしれない。そのときに「ん、おかしいな」と感じ、外界と調整する必要が生まれる。

つまり行動を訂正する必要が生まれる。それが意識の出発点です。そういう意味では、意識するとはすでに訂正するということにほかなりません。