人生の友の見つけ方

さて、友人をしっかり正面から見てみよう。いや、それよりも友人とあなたとの関係を考えてみよう。その人とつきあうことで、あなたの才能、能力、長所、世界とあなたとの関係は良いほうに向かうだろうか。その人がいなければ未開発のまま終わっていただろうか。もっと簡単にいえば、その関係は自分の成長にプラスになっているだろうか。

危険を承知で問うなら、友の条件は、「この人を信頼できるか」ではなく、「この人といることで自分に自信がもてるようになるか」で決まる。その意味では、師匠が弟子にとって「友人」である場合もあるし、先生が生徒にとって「友人」であることもある。

人生は可能性に満ちているが、偶発的なものでもある。いつでも幸運が待っているとは限らない。もし、誰かのおかげで人生をより豊かで濃いもの、充実したものにできるのなら、その人はあなたにとって真の友、人生の友なのだ。

友情によって人生は豊かになり、発展していく。こうした広がりや成長は目に見えるものだ。十年待つ必要もなければ、友人が何を意図しているのか何時間も探る必要もない。ただ目を開いて見ればいいのだ。

友人の手を握る人
写真=iStock.com/Kobus Louw
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古代ギリシャ哲学における理想形

「哲学を学べばものぐさが治りますか」

あなたは「ものぐさ」なのだろう。

当然のことながら、どうして「活動」しなければならないのか、と不思議に思うかもしれない。誰もが意志的に行動すべきだと思われがちな現代において、ギリシャ哲学を想起させる良い問いかけだ。

ソクラテス以前の哲学者パルメニデスにとって、最高の価値「一者」(ト・ヘン)は完璧に不動であることだった。

そう考えると、人間の行動は意味のない騒乱にすぎない。常に変化し、多様性にあふれている私たちの住む下界は、プラトンにおいても永遠と必然性、不動の価値をもつイデアの空よりも「下」にあるとされている。

アリストテレスにおける活動のランク付けでも、揺るぎない存在であること、不動の真実を仰ぎ考察する識者の生き方は、政治活動よりも尊いものとされていた。政治活動もまた、原初的な欲求を満たすために「動きまわる」ことを意味する経済活動よりは、「上」であるとされた。

古代ギリシャにおいて人間的な行為に対し評価が低かったのは、彼らが「絶対」という価値を信じていたからであり、形而上学的な概念を基準に、人間的な行為を評価していたからだ。

つまり、人間的な行為を低く見ていたのは、そうした行為を無意味で空疎なものだとみなしていたわけではなく、あくまでも不動の永遠という理想を基準とした場合に、それよりも劣るという比較の問題だったのだ。不動が理想ならば、確かに人間の行為は価値が低いものとなるだろう。