いずれ訪れる死に対して、どんな備えをしておくべきなのか。権力を振りかざす人に共通する特徴とは何か。フランスの高校生は「哲学」の授業で、そうした問いへの考え方を学んでいる。フランスの哲学者シャルル・ペパン氏の著書『フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書』(草思社)より、一部を紹介する――。(第2回)
夜に部屋のベッドに一人で座り、窓の外を見る女性
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「哲学とは死に方を学ぶことだ」

「哲学者はどうやって自分の死に備えているのでしょう」

モンテーニュより前にプラトンが「哲学とは死に方を学ぶことだ」と言っている。死はプラトンにとって、永遠の真理を再発見する機会だった。私たちは生まれる前、その真理に浸っていたはずなのだ。

「死に備える」とは、「肉体の死」、あらゆる本質的ではないものを終わらせ、永遠という視点からものを眺める天上の精神のみにて生きる存在、すなわち賢者になることである。

東洋の思想においても、死を先取りし、死後の世界をあらかじめ生きることを説くものがある。死は、私たちが執着する人や、場所や物から私たちを引き離す。ならば、今から執着を捨てておこうというわけだ。そうすれば、いつ死が来ても準備はできている。もう失うものはない。

ガネシャという神様〔訳注:ヒンズー教の象の顔をした神様〕は多くの場合、片手に小さな斧をもち、もう片方の手に縄をもつ。斧は命とのつながりを断つためのもの、縄は人を精神世界に引っ張り上げるためのものといわれる。

そこで疑問がわく。瀕死ひんしの状態でもないのに、死に備えることはできるのだろうか。人生を諦め、心躍ることに背を向けるしか、死に備える方法はないのだろうか。

備えるという言葉は正しくない

実際、正反対の生き方にも心惹かれるものがある。東洋の教えのように執着を捨て無に至るのではなく、あらゆる可能性を試してみて、できる限り多くのことを見たり、体験したりしたうえで、心置きなく死を迎える。

「もうやることはやりつくした」「いつ死んでもよい」という境地を目指す。だが、当然のことながら、すべての可能性を生きることなど不可能なのだ。

死がどんなものなのかはわからない。経験がないからだ。当然、死に備えることは難しい。老いや病というかたちで予兆を感じることはある。喪失感や後悔など、誰かの死をきっかけに学ぶこともある。だが、死を経験することはない。死を思い浮かべることすら難しい。つまり、備えるという言葉は正しくない。

だからといって、死への疑問を封印することはない。人生に悔いのある者、落伍者を自認する者ほど、死への恐怖は強い。充実した人生を送った者は、より穏やかな気持ちで死を覚悟する。もちろん、いつ死んでもいいというわけではないだろうし、誰だって死は怖い。

だが、それでもなすべきことをしたと思えれば死への恐怖は弱まる。たぶん、それが死を考えるヒントであり、生きるためのヒントでもあるのだ。