徳川家康が生涯で最も苦しんだ時期はいつか。歴史評論家の香原斗志さんは「関ヶ原の戦いの直前の約1カ月間だろう。淀殿の思わぬ翻意に、家康は『どうする』と悩みもだえたはずだ。NHK大河ドラマでそのシーンが描かれなかったのは残念だ」という――。
『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 完結編』
『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 完結編』(写真=PR TIMES/NHK出版)

NHK大河ドラマで無視された「重大な要素」

映像はなかなか迫力があって楽しめた。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第42回「天下分け目」(11月5日放送)と、第43回「関ケ原の戦い」(11月12日放送)。コロナ禍に撮られた映像ではどうしても迫力が得られなかった戦闘シーンが、予算を割いて写実的に表現されていた。俳優たちの演技もいい。だが、大きく引っかかる点があった。

慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝討伐のために会津(福島県会津若松市)に進軍していた徳川家康(松本潤)率いる軍勢が、下野(栃木県)の小山(小山市)に到着したときのこと。上方から次々と情報がもたらされた。いわく「殿を断罪する書状が、諸国に回っている様子」「大坂はすでに乗っ取られている様子」「大谷刑部、小西行長、毛利は奉行としても加わっている様子」「宇喜多秀家も三成につきました」……。

それを受けて翌25日、家康は小山評定と呼ばれる軍議を開き、会津への進軍をやめて挙兵した石田三成(中村七之助)を討つために西上すると諸将に報告。大坂で妻子が人質になっているため、それぞれ進退は自由だと伝えたうえで、逆賊たる三成を討伐することの正当性を訴え、諸将に賛同を求めた。

この流れのなかに、テレビを見ながら驚いて、「えっ!」と声を上げてしまった場面があった。近年、「小山評定はなかった」と主張する学者もいるが、そのことではない。私はあったと考えている。

驚いたのは、小山評定を行った前提についてだった。小山評定が行われた時点では、家康たちは「殿(家康)を断罪する書状が、諸国に回って」おり、「大坂はすでに乗っ取られている」とはまだ認識しておらず、そのことがその後の行方を大きく左右したのに、「どうする家康」では、すでにその情報が届いていることになっていたからである。