私が理解できない三成の行動

石田三成は8月5日付で、信濃(長野県)上田城(上田市)の真田昌幸と子息の信幸および信繁(いわゆる幸村)に宛てて書状を送り、そのなかに次のように書いている。

「先書ニも申候伏見之儀、内府為留主居、鳥居彦右衛門尉、松平主殿、内藤弥次右衛門父子、千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、当月朔日午刻、無理ニ四方ヨリ乗込、一人も不残討果候、大将鳥井首ハ御鉄砲頭すゞき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、やきうちにいたし候(先にも書いた伏見のことは、家康が鳥井元忠らに留守居を命じ、彼らは1800余の軍勢で立てこもっていたが、7月21日に包囲を開始し、8月1日の昼ごろ、強引に四方から乗り込んで一人残らず討ち果たした。大将の元忠の首は鈴木孫一が討ち取り、その後は城内にことごとく火をかけて焼き討ちにした)」

また、8月2日付で三成を加えた四奉行および毛利輝元、宇喜多秀家の6名の連署で真田正幸に送られた書状には、ほぼ同様の内容に続き「誠以天罰与申事ニ候(誠に天罰というべきことだ)」と書かれている。

三成らは「豊臣公儀」を前面に打ち出し、こうして家康と対峙たいじしたわけだが、豊臣公儀を確立した秀吉が丹精込めて築き、その死に場所にもなった城を焼き討ちにしたと、自慢気に書く感覚が、私には理解できない。それはともかく、関ヶ原合戦の前哨戦としての伏見城攻城戦は、こうして凄惨せいさんな結果に終わった。

養源院
養源院(写真=hiro/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

鳥井元忠の忠義がもたらしたもの

前述の血天井、とりわけ養源院のものには、切腹した武士が悶え苦しんで這い回ったと思われる痕跡までが残されている。家康は戦後、この床板を見て、伏見城を最後まで守った元忠らの忠義に感激し、床板の保存を考えたと伝わる。しかも、だれにも踏まれないように天井に張ったのだという。

そして、元忠らが受けた仕打ちが、家康方を刺激したことはまちがいないだろう。徳川家の家臣の怒りは容易に想像がつくが、それだけではない。福島正則をはじめ、上杉討伐のために家康に付き従っていた豊臣系大名たちもまた、「豊臣公儀」のために動いていた。それなのに一方的に賊軍扱いされ、三成方に従わないと「天罰」といわれてしまう。

反発した武将たちの発奮が東軍の勝利につながったとすれば、鳥居元忠も東軍の勝利、ひいては徳川の天下獲りに命を賭して貢献したといえるかもしれない。

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