豊臣秀吉が息を引き取った城

このところ「どうする家康」では、家康が伏見城にいることが多かった。豊臣秀吉(ムロツヨシ)が息を引き取ったのも伏見城だった。

鳥居元忠肖像
鳥居元忠肖像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この城は家康の死後の元和9年(1623)に廃城となってしまい、その跡地も本丸などの中心部は、桃山御陵(明治天皇と昭憲皇太后の陵墓)となって宮内庁が管理しており、立ち入ることもできない。そんな事情があって、一般には印象が薄いようだ。しかし、豊臣政権の中枢は、ある時期から伏見城に置かれていた。秀吉が築いた城の例に漏れずきわめて豪奢で、かつ政治的にも重要な城だったのである。

秀吉が伏見城を築いたきっかけは、天正19年(1591)末に、関白職を甥の豊臣秀次に移譲したことだった。同時に京都における政庁にしていた聚楽第も秀次に譲ったので、自身の隠居屋敷が必要となって築いたのが伏見城のはじまりだった。文禄2年(1593)8月に嫡男の拾(のちの秀頼)が生まれてからは、秀吉はこの城を本格的な城郭として整備した。

ただし、この最初の伏見城は、鳥居元忠が守ることになるのちの伏見城とは、所在地が異なっていた。

なぜ三成は伏見城を狙ったのか

淀川を望む指月の丘に築かれたこの伏見城は、文禄5年(1596)閏7月の大地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けてしまう。このため秀吉は、1キロほど北東の高台である木幡山に、あらたに城を築きなおした。かなりの突貫工事が行われ、その年の10月には本丸が完成し、翌慶長2年(1597)の5月までには、天守や御殿も竣工しゅんこうしている。

以来、秀吉は慶長3年(1598)8月18日に没するまで、この木幡山伏見城を拠点にして政務を行い、それを引き継ぐかたちで、秀吉の死後はいわゆる五大老、五奉行による政治の舞台となった。

次第に伏見城は家康色が強まっていく。家康は慶長4年(1599)閏3月の石田三成襲撃事件を機に、伏見城に居所を移している。同年9月に自身の暗殺計画が浮上した際、伏見城から大坂城西の丸に移ったが、その後も、伏見城は家康にとって重要な拠点であり続けた。

しかし、だからこそ三成らが挙兵すると、伏見城が真っ先に狙われることになったのである。