歌人のエリート家系で、幼い頃から才能開花

紫式部の家系は藤原冬嗣の子孫で、この一門には文人、歌人が非常に多い。曾祖父は藤原兼輔で、祖父、叔父、父もみな文人、歌人の名を成しており、遺伝的にもDNAを強く引き継いでいたのであろう。

創作の『源氏物語』以外の作品には、『紫式部日記』や『紫式部集』がある。『紫式部日記』はいわゆる日記というよりはその折々に綴った随想録のようなもので、『紫式部集』には約120首の和歌がおさめられ、勅撰集に入っている歌が58首もある。

紫式部は子供の頃から優秀であったという。父が兄の惟規に『史記』を教えている時に、脇で聞いていた式部のほうが早く覚えるものだから、父が「男の子にてもたらぬこそ幸いなかりけり」、つまり、式部が男の子でなかったのが残念だと言ったといわれている。

その惟規も平凡な人ではなく、詩趣の豊かな歌を残している人であったから、その兄勝りと父に言われた紫式部の幼児の頃の穎脱えいだつぶりがわかる。

結婚は当時としては割と遅かった。父に同行した越後から都に戻ると、藤原宣孝と結婚した。相手は48歳、式部は22歳で、随分年が違っていた。しかも夫宣孝の子には4人の違った母親の名前があり、随分と多くの側室がいたようだ。

26歳年上の夫との結婚生活はわずか3年

贈答の歌も残っているが、非常にスムーズに結婚したようでもないといわれている。紫式部があまり美人ではなかったからだとされるが、藤原宣孝は文学的な関心をもっていたので、そちらのほうで式部に引かれ、結婚する気になったと推測される。

夫の死により終わったわずか3年の結婚生活はそれほど濃厚でもなかったという説もある。その証拠として、

「いるかたは さやかなりける 月影を うはのそらにも 待ちし宵かな」

(現代語訳=入っていく方角のはっきりわかっていた月の姿を、昨夜は上の空で待っていたことでした)

という歌が残っており、これはどう考えても、早く夫が来てくれないかと思っていたようである。

それでも2人には娘が生まれた。その1人は百人一首にも出てくる大弐三位で、この頃から『源氏物語』を本格的に書き始めて、上東門院に仕えるようになった。

いろいろと逸話が伝えられているが、なかでも重要なのが、藤原道長に誘われて断ったのではないかということであろう。道長は当時はそれこそ「欠けたるものの 無しと思えば」というような、藤原時代の最盛期を築き上げた人物であった。