三成は秀吉の遺言に背いた家康を打倒しようと立ち上がった

三成は、豊臣政権の実力者・家康と安易に対立することは良くないと考えていたのでしょうか。とはいえ、内心では、豊臣秀吉の遺言(私婚の禁止など)を次々と破ってきた家康に苦々しい思いも持ってはいたでしょう(家康の六男・松平忠輝は伊達政宗の娘と結婚。家康の姪で養女とした女性は、福島正則の嫡男に嫁いでいます)。

家康に対する不満や敵意があったからこそ、三成は最終的には、西軍を組織し、家康打倒のため、動いたのです。が、その結果は、皆様、ご存じのように西軍の敗北に終わります。関ヶ原の戦いに敗れた三成は、逃亡するも、捕縛されます。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)は、家康は慈悲深くも三成を助けたのに(筆者註=先述の諸将による三成襲撃事件のことを指す)、三成はその御恩を有難いと思うことなく、心中、謀反を企んでいたと記しています。

狩野貞信作『彦根城本・関ヶ原合戦屏風』
狩野貞信作『彦根城本・関ヶ原合戦屏風』(写真=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/PD Old/Wikimedia Commons

関ヶ原で負けた後、木こりに変装した姿で捕まった三成

三成は、敗戦後、伊吹山に逃げ込んだようですが、木こりに変装していたとのこと(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)。破れてボロボロになった衣服を着て、鎌を所持しているところを捕えられたと言います。そのことを聞いた人々が「大逆を企てる程の者が、死を惜しむとは。情けない」と嘲笑したそうです。

家康は、人々の嘲笑を聞くと、次のように反論しました。「凡そ人は、身を全うしてこそ、何事も成し遂げることができよう。大望を思い立った身ならば、1日の命であっても、大事なのだ。早く衣服を与え、食事を提供せよ。もし、病ならば、医者にも診せよ。よくよく扶助して、不自由のないようにせよ」と(『徳川実紀』)。

三成は、徳川の家臣・鳥居成次に預けられます。成次の父は、鳥居元忠。伏見城の留守を守っていた元忠ですが、そこを西軍に攻められて、元忠は戦死していました。成次にとって、三成は親の仇。しかし、成次は家康の仰せに従い、三成を丁寧に扱います。三成は感激し、涙を流したそうです。