差別した人にあえて会いに行く

誰からも愛されるというわけにはいきませんが、少なくとも、その土地で、親しみを持たれるようになる。でも、愛されるには自分が相手のことを好きにならないとダメですね。だから、男性であれ、女性であれ、出会った人に興味を持つ。「あの人はなぜああ言ったんだろう?」「どうしてあんなきついこと言ったんだろう?」と考える。

差別的な目に遭えば逆にその人に会いに行く。そうしたら、「いやあ、あのときはどうも」みたいな話になります、多くの場合。それで、あれはこういうことだったんだと自分の中で解消されていく。すると、それが一つの経験となって自信になっていきます。ただ、静かに家にこもっていては限界がある。

交流の苦手な人に話を聞くと、アメリカ人やイタリア人を「あいつら」みたいな言い方をする人がいます。アメリカ研究をやっている人が「アメリカ人はバカだから」と言っていました。そんなことは言えないでしょ、あれだけ複雑な社会なのに。

外観によって判断される偏った見解の概念
写真=iStock.com/hyejin kang
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だけど、そう言ってしまうのはその人の中に、一般化したくなる残念な過去があるのかもしれません。そうならないためには、まずは個を見なくてはいけない。

相手を個で見ようとしたとき、では、自分自身はなんなのかと問いが返ってきます。

大事なのは所属ではなく個人

私の属性はいろいろあります。日本人、男、壮年、いわき市生まれ、東京の板橋、足立育ち、職歴、家族構成など。その中で日本人というのは、帰属の一つにすぎないと思えば、さほどそこにこだわらなくなります。

なぜこだわらなくなったのか。アフリカで暴動に巻き込まれた経験については話しましたが(『差別の教室』)、それ以外の理由もあると思います。

計15年ほど世界各地に暮らし、現地の人と親しんできました。そうした友人たちを振り返ったとき、その人を語る上で、例えば「コロンビア人」「中国人」といった国籍はさほど大きくないと気づきました。

国籍は、その人のいくつかある属性の一つにすぎず、その人を形づくるのは、生来の気質や家庭環境、その人固有の経験や感受性であって、国籍で人を知ろうとしても限界がある。その結果、次第次第に私自身も、国籍は一つのラベルにすぎないという姿勢をとるようになりました。

私がすごく尊敬している親しい人は中国出身で海外生活の長い人です。親しい友人には日本人、南アフリカ人、コロンビア人、メキシコ人、アメリカ人がいます。彼らを国籍で好きになったわけではない。彼らにはいろんな属性があって、そのうちの一つが中国の上海生まれだった、くらいのことです。