差別ではなく人間を学ぶ

「いままでの私は興味が湧かないと言って何も学ばない人間だったが、話を聞いていろいろなことに挑戦していこうと思った。アフリカだけではなく、私生活すべてにおいて気になることがあればそれについて調べ、アプローチしていこうと思った」と感想を書いてくれた学生がいました。

特に若い学生たちはこれからもいろんな場面で差別を目撃したり、自分が差別されたりすると思います。そういうとき、これはどういう意味だったのかと考える。こうすべきだったという答えはありませんが、差別を学ぶのではなく、人間を学ぶということです。

人間、その一人である自分はどう反応するか。自分の生き方と言うと大袈裟ですけど、自分がどうすべきだったのか、相手とどうコミュニケーションをとるべきだったのかを考えていく。その反省から、この学生が書いたように「挑戦していこう」という気持ちになる。この人はそういうことを直感的に感じてくれたんだと思うんです。

どうしたら差別をしない人間になれるのか

「どうしたら差別を意識しない、あるいは差別をしない人間になれますか」という問いが結構多かったんですけど、どうでしょう。自分の場合、そういう気持ちになるときは、「常に明るい人間でありたい」と思ってきました。

そして、「きちんと自己主張する人間でありたい」と。そのためには言葉ですね。自分は結構英語ができると思って、英語圏の南アフリカに行ったんです。でも、南アフリカの英語はブリティッシュイングリッシュに近いこともあって、自分はできると言ってもやっぱり日本人の中でできただけでした。

当時、南アフリカの大統領だったネルソン・マンデラさんの定例会見に最初に行ったときの話です。マンデラさんは、私が手を挙げて質問しても「はあ?」みたいに耳に手を当てて、「わからない」という感じの反応をしたんです。

最初のうちは英語でうまくコミュニケーションがとれず、フラストレーションが溜まっていましたが、英語ネイティブだった妻に「それは英語の問題。基礎をちゃんとやったほうがいいんじゃない」と言われ、先生について必死に勉強しました。

つまり、英会話を勉強するだけではなく、自分の言葉をしっかり英語で組み立てられる人間になろうとしました。きちんと書ける、読めるというのが大事です。

どうしてもポンポン話せる英会話ができるほうがいいと思いがちですが、会話をするためには、言葉を知らなくてはならない。それには、どれだけ読めるか、書けるかが大きいんです。そういうことを一生懸命やっているうちに、2年ぐらいで自信がついて、英語の世界でさほど苦もなく仕事ができるようになりました。

言葉ができれば友達もできるし、明るい人間でいれば、愛されるキャラクターになっていく。それが大事じゃないかと思うんです。