長篠の戦いで織田・徳川連合軍と戦った武田勝頼とはどんな武将だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「愚将というイメージがあるが決してそんなことはない。信玄亡き後の武田家を盛り立て、信長と家康を苦しめ続けた」という――。
秀吉清正記念館に展示されていた織田信長画像の複製
秀吉清正記念館に展示されていた織田信長画像の複製(写真=KKPCW/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

武田勝頼は本当に愚将だったのか

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、主人公の戦国武将・徳川家康の前に、織田信長や豊臣秀吉、武田信玄など一筋縄ではいかない猛者たちが次々と登場し、立ちふさがります。

その信玄の後継者となる武田勝頼は、俳優の眞栄田郷敦さん(父は千葉真一さん)が演じています。勝頼は第16回「信玄を怒らせるな」(4月30日放送)で初登場し、早くも話題となっています。これまでのイメージとは異なる格闘面での「強すぎる勝頼」が描かれていたのです。

勝頼というと、戦国最強武将・信玄の優れた業績に隠れてあまり目立たない武将です。長篠の合戦(1575年)で織田・徳川連合軍に敗れ、その後、武田家は勝頼の代で滅亡(1582年)してしまったという印象が強過ぎて「愚将」とする見解もありました。

甲陽軍鑑』(江戸時代初期に編纂された軍書)は、勝頼のことを「勝頼公つよくはたらかんとし給ひ、つよみを過ごして、おくれをとり給ふ、勝頼公強過ぎて、国を破り給はんこと疑あるまじ」と評しています。

つまり、勝頼は強過ぎたが故に、国を滅亡に追い込んでしまったというのです。一見、矛盾する見解のように思えますが、勇猛過ぎる(勇猛果敢)がために、無理に無理を重ねて、猪突ちょとつ猛進し、武田家を滅ぼしてしまったということでしょう。果たして、実際はどうだったのでしょうか。