育児の神話を信じる義母も登場

つまり、彼が手助けをするときは、それは彼の好意からであり、彼自身は育児を自分の責任で行うべきものだと捉えてはいなかったと思う。それよりなにより、仕事だった。仕事をしっかりとすることが、父親の役目だと信じていたと思うし、育児は私の方が得意だろうと漠然と感じていたのだと思う。

そんな夫は、育児というステージに立つと、突然、脇役になろうとした。私からすると、ちょっと待って、この舞台で主役は二人だよ? という気持ちが常にあったのだ。

脇役としての育児が辛くなると夫は、必ず別の脇役を舞台に送り込んできた。わが家から車で二十分程度の距離に住む義母だ。夫は自分が困ると必ず、「母さんに頼めばいいじゃないか」とか、「おふくろだったら、たぶんこうする」なんていうタブーを口にした。

男女の口論
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私からすれば、夫の口から最も聞きたくない言葉だ。私たちの舞台に、突然そんな個性派俳優を送り込まれてもという気分だし、実際、義母はキャラクターの強い人で、数々の神話を信じる人でもあった。その神話とは、母乳神話であるし、三歳児神話であるし、手作り神話だ。そのすべてを全力で否定したい私とは、あらゆる点で意見が異なった。そして義母は、脇役というよりは、主役を張りたいタイプの人だった。

追いつめられた夫は「避難部屋」へ

夫の両親には、様々な形で育児を支援してもらった。双子が二人とも発熱すれば、小児科の受診に付き合ってくれ、私が疲れているときは食事のしたくなども率先してやってくれた。もちろん感謝はしているが、心に一ミリも余裕のなかった私は、彼らの手助けさえも受け入れることができないほどに追いつめられていた。

追いつめられていたのは、夫も同じだっただろう。子どもと妻のためにと必死に働いて家に戻れば、泣き続ける双子と疲れ切った妻が虚ろな表情で待っていたとしたら、悪夢のようだ。そのうえ、妻は苛立ち、部屋は荒れ果て、洗濯もロクにできていない状態だったとしたら? 私が逆の立場でも音を上げそうだ。

残業が続く日々には、夫は双子とは別の部屋で眠るようになり、早く家に戻った日も、双子と時間を過ごすことなく、いつもの避難部屋(と、私は呼んでいた)に籠もり、テレビを見るようになった。「頼むから、たまには休ませてくれよ」と夫は言った。その台詞は私のものだと思いつつも、言い争う気力もなかった私は夫の言葉を受け入れ、夫が残業から戻った日は、彼の好きなようにさせていた。そしてますます追いつめられた。