絶対的なバカは存在しない

「バカは蟻地獄だ」という本題に入る前にいろいろと検討してきましたが、このあたりで手短に、反対意見にも備えておきたいと思います。

本書の「はじめに」に「人はみんな、他の誰かにとってバカである」と書きました。まず、これに対して考えられる反対意見を書いてみます。

《人がみんな、他の誰かにとってバカであるなら、仮にこちらが誰かをバカだと思っても、その人のことをバカとは言えないのではないか。向こうからしたら、きっとこちらのほうがバカなわけだから……。そもそも、立派な人間とはどんな人のことで、それは誰が決めるのか。》

この考えを突き詰めれば、絶対的なバカは存在しないということになるでしょう。なぜなら、バカとは相対的なもので、要は比較の問題だからです(人はみんなバカで、程度が違うだけ)。

その実態は煙ってしまって見えない
写真=iStock.com/Alena Ivochkina
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それに、バカを判断する基準になっている道徳観にも、絶対的なものはなく、人によって緩かったり厳しかったりします。

そのため、ある人がバカかどうかは、完全に個人の見解に左右されます(その人が自分の目線で見てそう思うだけ)。そういう意味では、バカという言葉は、人それぞれの個人的な好みを反映しているだけ、ということになりますね。

大多数の人がバカだと思えばバカ

というわけで、確かにバカは比較の問題なのですが、ひるまずに先を続けます。人はみんな、他の誰かにとってバカである。

わたしは心からそう思っていますが、それは、バカはみんな似たようなもの、ということではありません。一人ひとりがバカを独自に評価するのですから、そうした評価を集めて見比べれば、当然、一致する部分もしない部分も出てきます。

そこで、本稿で取りあげて分析する対象は、ある時ある場所で、困った状況になった場合に、本人以外の大多数の人がバカだと思うような人とします(人によって細かい考えが多少違っていてもよしとします)。

先ほど、絶対的なバカは存在しない、と書きましたが、それについてもう少し考えてみましょう。順番としては、客観的に見てバカな人が先に存在しているわけではありません。

ある人のことを、たくさんの人が、自分の主観で「あれはバカだ」と思えば、それがその人たちの共通認識となり、結果としてその人は客観的に見てバカ、ということになります。

人々の主観を全部合わせたときに重なる部分、つまり共通部分が、結果として客観性になると言えます。

したがって、バカは比較の問題だから、客観的に真偽を判断し、真理を追究することはできない、というより、バカな人に下される「バカ」という評価こそが、人の立ち位置は周囲のとらえ方で決まるという、まさに人間関係の真理を表していると考えられます。