他者を説得するにはどんな言葉をかければいいか。フランスの哲学者・マクシム・ロヴェールさんは「誰かの価値体系を変えようと、『そういう行動はやめるべきだ』と言ってはいけない。話し手の実態が本人とルールの2つに分裂した常軌を逸した状態になってしまう」という――。

※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。

暗がりでこちらを指さし声を荒らげる男性
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バカに説教をしてしまうのはなぜか

象とクリスタルガラスは全く違うものですが、なんと、このふたつの特徴を併せもつバカがいます。生きた象の体がクリスタルガラスでできている、と想像してみてください。

重さ数トンのこわれものが、長い鼻を揺らし、自由にのし歩き、なんならドスドス走ってこちらに来るわけです。

そういうバカは、初めて会って握手をした瞬間に、危ない、嫌な感じがします。慎重に扱わなければならないということが、最初からわかるのです。

こちらは、バカに何か言うときも、バカのほうを見るときも、ほぼ毎回、軽業のように、巧みに衝突を避けなければなりません。

バカは次から次へと現れ、わたしたちは、うまくよけられているか必ずしも確信がもてないまま、この軽業を続けます。するとそのうち、全部ガッシャーンと壊れる日が来ます。

わたしたちは、バカが粉々に壊したものを見つめながら、取り返しのつかない事態というものを味わいます。それは何よりもつらい経験ですが、バカも派手に壊れるという点では、何よりも素晴らしい経験でもあります。

哲学者のなかには、慰めようという意図で、「取り返しのつかないことというものは、要は避けようのないこと、つまり必然だったのだ」と言う人もいます。

でも、それは優しい嘘です。取り返しのつかないことのほとんどは、偶然の事故で起きます。そして、それこそがまさに、バカとは何かを言い表しています。

バカはそうした偶発的な出来事を、回避不能にしてしまいます。偶然を必然にしてしまうのです。

本稿の内容
・人はバカに対して含みをもたせた説教をしがちである。
・こうした説教はバカに対して無力であることの表れであり、効果はない。