正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉の名が並ぶ

一高の旧制中学別ランキングはどうなっているか。

学制改革以前、大正から昭和にかけて、『サンデー毎日』も『週刊朝日』も創刊されていたが、「全調査、一高合格中学ランキング」という記事は見あたらない。当時の教育誌『教育時報』『受験と学生』(研究社)にほんの少しだけ掲載されている程度だ。

そこで、『第一高等學校一覧』(『一高一覧』)を調べてみることにした。ここには、在校生の氏名、出身地、出身校が掲載されている。

1885年の『一高一覧』には正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉が同級で並ぶが、3人とも「應募」とある(入学時は東京大学予備門)。

子規は松山中学(松山東高)を中退して東京大学予備門を受験するため、共立学校という予備校に通った。漱石、紅葉も東京府第一中学(日比谷高)を中退して予備校通いをはじめる。

漱石は成立学舎、紅葉は三田英学塾で学んだ。漱石はこう回想する。「正則の方では英語をやらなかったから卒業して後更に英語を勉強しなければ予備門へは入れなかつたのである。面白くもないし、二、三年で僕は此中学を止めてしまつて……」(『中学文芸』臨時増刊「名士の中学時代」、1906年)。

正岡子規が通った予備校の正体

ここで、東京府第一中学の歴史を簡単に振り返ろう。1878(明治11)年に創立した。やがて、81年東京府中学、87年東京府尋常中学校、99年東京府中学校、1900(明治33)年東京府立第一中学校、43年都立第一中学校、学制改革を経て48年都立第一高等学校、50年都立日比谷高等学校と名称が変わる。

さて、漱石が在学していたころの一中は、教育内容で「正則」「変則」の2コースに分かれており、漱石が所属していた「正則」では3年次まで英語の授業がなかった。退学して予備校に通い一高を受けるほうが、受験勉強する上でも経済的にも効率が良かった。

このように、1880年代までは一高受験生を予備校が引き受けていた。88年一高入試において、合格者出身予備校ランキングの記録が残っている。

共立学校53人、東京英語学校53人、成立学舎30人(『日本人』1888年)。

共立学校の年別合格者数の推移を見てみよう。79年120人、82年75人、84年72人、85年85人、86年76人、87年46人、88年53人、89年56人、90年64人。

なお、90年には一高合格者のうち21%を占めていた。これらのデータの出典は『開成学園七十年史』による。そう、一高に多くの合格者を出した予備校は、開成高校の前身なのである。

共立学校のライバルは東京英語学校である(一高の前身、官立英語学校とは別機関)。同校の一高合格者の推移は、86年36人、87年67人、88年53人、89年67人、90年94人となっている。これらのデータは『日本学園百年史』による。現在の日本学園高校である。