1890~90年代の上位は名門私立がずらり

共立学校、東京英語学校からの一高合格者の多くは、東京府尋常中学退学組に支えられていたといっていい。89年、東京府尋常中学の卒業生は27人しかいない。中退者は204人にのぼる(『東京府史』)。その多くが予備校に通ったのである。

もっとも、予備校といっても未修の科目を初めて学ぶという点などで、現在の大学受験予備校とは性格が異なる。

86年中学校令の公布によって、中学卒業と高校入学のレベルの差が解消され、両者の接続がスムーズに行くようになった。予備校に通わなくても中学でしっかり学べば高校受験に対応できるようになった。

これで商売上がったりと、困った予備校はどうしたか。先述したように、自ら中学校へ生まれ変わったのである(以下、カッコ年は創立)。

共立学校は開成中学(91年)、東京英語学校は日本中学(92年)、尾崎紅葉が通った三田英学校は錦城中学(92年)となった。予備校時代に培われた一高受験のノウハウはいかんなく発揮され、既存の中学にとっては脅威となった。1890年代の一高合格者ランキングは私学が上位を占めている。

「旧制一高」の旧制中学合格者ランキング(1900年~1911年)
 府立第四は現在の戸山高校(出典=『改訂版 東大合格高校盛衰史』より)

「獨協」が1位になった事情

私立中学のなかで特に抜きんでていたのが、獨逸学協会中学校だった。現在の獨協高校である。03年の一高合格者は44人でトップ。このうち35人が第三部のなかにあった医科だった。

当時、一高は第一部(法科、文科)、第二部(工科、理科、農科)、第三部(医科、薬科)に分かれていた。医科の授業ではドイツ語が必須なため、受験でドイツ語必須枠が40人設けられていた(ドイツ語以外でも受験できたが、ごく少数だった)。

これはドイツ語教育に力を入れている獨逸学協会中学にとって、大きなアドバンテージになる。このころ、旧制中学でドイツ語を学べるのは、府立一中、愛知一中(旭丘)など限られており、受講生も少ない。こうした背景もあって、獨逸学協会中学からドイツ語受験組が大挙して一高医科に進んだのである。

一高第三部の入試は難関だった。しかし、この時代、医師になることに今ほどステイタスはなかった。そして事実上、ドイツ語必須だったので入学希望者が限られていた――等々を考えれば、東大理三のような最難関というわけではないだろう。