しかし、徳川方が何が何でも戦争に持ち込もうとしていたかというと、そうではありません。徳川方が示した「三箇条(秀頼の駿府と江戸への参勤/淀殿を江戸詰め〈人質〉とする/秀頼が大坂城を出て他国に移る)」は、秀頼の安全と豊臣家の存続を図るのには必須事項でした。豊臣方からすると理不尽なことに見えますが、天下人である徳川家康からしてみたらむしろ譲歩した要求で、「今までかなり我慢してきたんだ」という思いがあったはずです。豊臣家は生き残ろうとしたら、3つのうちのどれかをのむべきだったと思います。
そもそも「国家安康」のチェック体制が甘かったのは、明らかに豊臣家の手落ちです。銘文を考えたのは東福寺の禅僧・文英清韓ですが、いくら立派な僧が書いたからといっても、そのまま使うのではなく、「セカンドオピニオン」を聞くべきでした。一方で徳川家から諮問を受けた五山僧は、名前の分割を批判しています。それだけ呪詛の観念が強い時代だったのです。
時代の変遷とともに評価が180度転換
方広寺鐘銘事件を口実に豊臣家を挑発して「大坂冬の陣」に持ち込み、大坂城の内堀の埋め立てなどの謀略で、豊臣家を滅ぼした流れが、家康を「タヌキ親父」のイメージにしました。しかし、時代の変遷とともに、家康の謀略に対する解釈が変わってきます。
家康を神と崇めている江戸時代の史料では「家康が策謀により豊臣家を滅ぼした」と書いています。一見、家康を悪く書いていると読めますが、江戸時代は、家康は悪辣な陰謀をやったという描き方ではなく、むしろ「見事な策によって豊臣家を滅ぼし、徳川の安泰の、磐石の世を築いた。天下泰平の世を築いた」と肯定的に捉えています。
一方、明治以降は、家康を神として崇めなくてはいけない縛りはなくなるので「主家を無理やり滅ぼした悪辣な陰謀なんじゃないか」という見方に傾きます。すると日本人の素朴な感情として、卑怯な感じがつきまとい始めます。よって明治以降はタヌキ親父のマイナスイメージが定着しました。
ところが戦後は、またもや家康像が転換。山岡荘八の歴史小説『徳川家康』は、織田をソ連、今川をアメリカ、徳川を戦後の日本に見立て、平和を求める戦後日本の苦難の歩みを、家康を通じて表現しています。連載開始時は、家康は「タヌキ親父」として嫌われていたので人気が出なかったそうです。
しかし、同書は昭和30年代に「経営者必読の書」として注目を集めます。山岡の意図は平和の尊さを訴えるものでしたが、家臣を大切にする家康の生き方が、戦後の家族主義的な企業経営の理想像と見なされました。そしてタヌキ親父と非難されてきた家康の行動も、肯定的に評価されたのです。
いよいよ大河ドラマ『どうする家康』が始まりました。松本潤さんは私が想像する家康の風貌と異なりますが、どのように描かれていくのか楽しみです。でも、戦国時代の英雄として美化するのではなく「家康にも情けない部分がある」という負の側面も描き、これまでの家康像を大転換してもらえたらと期待しています。