イギリスのテスコ、フランスのカルフール、アメリカのウォルマート――。圧倒的な調達力と優れた小売り技術を持つ彼らが、日本では苦戦を強いられたのはなぜか。その理由は「文化のバリア」であると筆者は説く。

イギリスの綿が日本を席巻できなかった理由

現在、静岡県知事を務められる川勝平太氏には、『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』(NHKブックス)という名著がある。明治初期のわが国近代工業の曙をテーマとするものだが、内容はわくわくさせる面白さがある。

イギリスに100年遅れてスタートした明治期の日本の近代化。当のイギリスは、産業革命を契機とし綿工業の生産力を高め、19世紀から20世紀にかけて世界の市場に進出した。その圧倒的な力による攻勢に耐え、逆にアジア市場で主導権を奪ったのは日本の綿工業であった。100年遅れてスタートしたにもかかわらず、日本の綿工業は、どうして巨大な生産力と販売力を併せ持ったイギリス綿工業に対抗できたのか。不思議な話だが、川勝氏は、その秘密を解き明かす。

結論だけ言うのも無粋な話だが、決め手となったのは、日本をはじめとする東アジアの衣服における文化・伝統による障壁の存在であった。同じ「綿」と言っても、生活における使い方や役割は、西欧と東アジアとでは大きく違っていた。イギリス産綿布は、いわば夏物といってよい薄地で、絹のごとくすべすべしていた。他方、国産綿布は堅牢で、冬の寒さを防ぐ厚地であった。

この品質・用途の違いのために、イギリスの綿はその生産力にもかかわらず、日本・東アジア市場を席巻できなかった。世界の先進国へと駆け上がるのに力を与えた日本の綿工業が離陸するうえで支えになったのは、何世紀もの長い時間を経て育て上げた東アジアの衣服文化の伝統であったというわけなのだ。

同じことは、21世紀の現代にも起こっている。欧米の小売企業が、なかなかわが国市場に進出・定着できず、逆に撤退する大手が目立つが、その一因はここにありそうだ。