島津義弘の処遇を間違えた三成

もうひとつの計算違いは島津義弘の処遇です。島津義弘は関ヶ原へ1500人ほどの少ない兵隊を連れて参戦しました。

関ヶ原の戦場史跡
写真=iStock.com/gyro
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石高に比べて明らかに兵数が少ないのは、島津家の事情です。島津家の大ボスは義弘の兄の島津義久。龍伯の名でも有名ですよね。ここまでもたびたび触れてきましたが、この人は鹿児島第一主義者で、中央のことなどまるで興味がない。鹿児島には鹿児島の流儀がある。だからこそ、関ヶ原だろうが天下分け目の戦いだろうが、そもそも知ったことではないというのが基本路線。

しかし弟の義弘は「島津家の保全のためには、中央の動きにもコミットしていかなければ」と考えていたことも、これまで述べてきたとおり。ちなみに、ふたりとも関ヶ原の当時はすでにいいおじいさんになっていました。

この間の朝鮮出兵のときは兄をなだめすかして、期日には遅れながらもなんとか1万人の軍勢を用意できた。しかし関ヶ原のときは、国元で伊集院一族が反乱を起こしていました。

そのため「今、鹿児島を留守にすることはできない」という兄義久の理屈が通り、わずかな数の兵しか戦場に連れてこられなかった。もし島津が1万の兵を送り、その軍勢が関ヶ原で暴れ回っていたら、戦局はどうなっていたでしょうか。

夜襲の提案を「田舎者のやること」と却下

しかし1500人しかいなくとも、戦闘民族である島津家の兵。起爆剤としては十分活用できたはずです。当時の戦争は、兵の大半は農民兵。基本的には戦意は高くありません。だからこそ、まず先陣を切って突入することのできる部隊がとても重要です。

そうした部隊が突入して「これは勝てるぞ」という空気が生まれて、農民兵たちも突撃できるようになる。しかし先陣が弱いと、途端に劣勢という空気が波及してしまいます。そして、もともと戦意が高くない人たちは腰が引けてしまい、その離脱を押さえることもできなくなってしまう。

だから戦闘の口火をきる、起爆剤となる戦力は大事。その意味で言えば、島津の兵は数が少なくとも戦意が高いし強いので、とても頼りになります。起用の仕方によっては十分に活きたと思うのですが、関ヶ原ではまったく動かなかった。

これはどう考えても三成のやりかたや扱いに不満があったとしか思えない。よく言われるのは、義弘が「夜襲をかけよう」と提案したところ、三成に「夜襲などは田舎者のやること。ここは正々堂々の戦いで行くべきだ」と否決されたという話です。