激変した商習慣鎬を削る情報戦

<strong>高萩光紀</strong>●たかはぎ・みつのり 1940年、東京都生まれ。64年、一橋大学法学部卒業、日本鉱業入社。93年、ジャパンエナジーが発足。94年、同社取締役、98年常務、2001年専務執行役員、02年社長。同年、新日鉱ホールディングスが発足。06年、同社社長。10年、新日本石油と新日鉱の経営統合でJXホールディングスが発足、同社社長。
高萩光紀●たかはぎ・みつのり 1940年、東京都生まれ。64年、一橋大学法学部卒業、日本鉱業入社。93年、ジャパンエナジーが発足。94年、同社取締役、98年常務、2001年専務執行役員、02年社長。同年、新日鉱ホールディングスが発足。06年、同社社長。10年、新日本石油と新日鉱の経営統合でJXホールディングスが発足、同社社長。

1980年前後、第二次石油危機で世界の原油取引が様変わりしたときだった。東京・虎ノ門の本社で、中東からの国際電話をじっと待つ日々が続く。中東産油国を歴訪し、原油の確保に走り回っている部長から連絡があれば、いつ、どれだけの原油を、いくらで買えるかを聞き、社内を走る。財務部門に資金繰りを依頼し、精製部門には輸入できる量と時期を伝え、ガソリンなど石油類の生産計画を進めてもらう。

40歳を迎えた時期で、原油調達担当の課長だった。ときには自分も中東へ出向いたが、どちらかと言えば「銃後の守り」の役目だった。

当時、中東へ行った面々には、情報が入らない。いくら現地紙を読んでも、石油に関する動きはわからない。とくに、市場価格が下がったなど産油国にとって不利なことは、何も載らない。英字版も同じだ。様子をみていると、産油国側が「あれ、よその会社はもう契約したぞ。いいのかい?」と促してくる。多くの場合、駆け引きだ。結局、出張組も、本社で集めた情報に頼るしかない。

国際電話で「先方はこう言っているが、どうかな?」「いや、業界を探ったら、どの社もまだ取引を決めていないようです」などというやりとりが、繰り返された。

第二次石油危機は、78年秋からのイラン革命で同国の原油生産が止まり、世界中で原油価格が高騰して始まった。実は、その数カ月前に、本社から岡山県の水島製油所へ転勤していた。本社では、課長といっても部下が3、4人。ところが、着任した製油所の総務部業務課は約30人もの大世帯。課長でも、けっこう偉かった。地元と良好な関係を維持するのが仕事で、楽しくすごす。

だが、普通は3年いるはずが、1年4カ月で呼び戻された。でも、石油危機を恨んでいる暇はない。イランは生産設備を接収し、メジャーと呼ぶ国際石油資本による支配から離脱した。他の中東産油国にも同様の動きが広がり、買い付けはメジャー経由ではなく、産油国政府と直接交渉する「DD取引」へ変わった。中東詣でが続くのも、当然だった。

73年秋に勃発した第一次石油危機のころは、まだ「古きよき時代」だった。このときも、危機対応チームに参加したが、メジャーがまだ健在で、産油国が敵対的な国への輸出を削減する程度で済んだ。

商習慣にも、大きな変化は出なかった。買い付け部隊は従来通り、ニューヨークやロンドンへ行ってメジャーと交渉するだけでいい。単発的なスポット取引の場合は、メジャーが東京へ配置していた人間と話すだけで済んだから、部長が本社から近いホテルオークラで会っていた。昼から一杯やって、相手がコースターの裏に取引量と価格の数字を書き込み、イニシャルをサインして渡す。昼過ぎに部長がほろ酔い加減で戻ってきて、「おい、これ、契約書だ」とコースターを渡す。「えっ、何ですか?」と聞くと、後で正式な契約書は送ってくると言う。

それが、2度目の石油危機では、がらっ、と変わる。蓄積してきたメジャーの人脈もノウハウも、無に帰した。DDとスポットの取引を組み合わせ、目先の量を確保するだけではなく、1年先のことまで考えねばならなくなる。でも、絶対量が不足していたから、交渉は厳しい。

例えば「プレミアム」だ。当時、原油の公示価格に2~3ドル上乗せしないと、長期契約がとれなかった。長期契約は、最も確かな量の確保策だ。でも、仮にその条件で3年契約を結ぶと、需給が緩んで価格が下がっても、「プレミアム」を払い続けねばならない。量は確保したいが、そんなリスクは負いたくない。様々な要素からプラス・マイナスを考えて、スポット取引へ傾斜した。スポット価格はときに割高にもなるが、妥当な選択と確信した。

「智者之慮必雑利害」(智者の慮は必ず利害に雑う)――判断を誤らない人は、物事を必ず利と害の両面から測る、という意味で、『孫子』にある言葉だ。せっぱ詰まったときに実践するのは容易ではないが、そんなときでも冷静に条件を分析する高萩流は、この指摘と重なる。1年半後、公示価格が大きく下がり、判断の正しさが明らかになる。