恩師から学んだ「由縁思考」の流儀

1940年12月、東京・大森で生まれる。45年に福島県へ疎開。小学校1年のときに、母が育った横浜へ戻った。「利」と「害」を冷静に照らし合わせる手法とともに、もう一つの高萩流となる「事の由縁から考える」という思考法は、一橋大学時代の労働法ゼミで培われた。

ゼミの教授が、民法の授業で最初に言ったことを、よく覚えている。

「民法は、経営者も労働者も一対一の対等な立場として出発している。ただ、労働条件を決めるのに現実的ではないから、労働法が生まれた。いわゆる弱者を守るための法律だ。そのように、法律でも何でも、必ずつくられた目的がある。何かの問題に立ち向かうとき、そもそも由縁は何なのかから考えれば、答えはおのずから出てくる」。なるほどな、と思って、その教授のゼミに入った。

64年4月、日本鉱業に入社、大阪支社へ配属された。ガソリンスタンドなどを相手にする石油製品の営業を担当する。以来、石油ひと筋が続いた。会社は92年12月、金属部門を分離する一方、販売を委託していた共同石油と合併し、日鉱共石が誕生した。日石などと同様に、製造から販売まで「製販一貫」の体制となる。さらに、1年後、社名をジャパンエナジーに変更した。

そんな事業再編の渦からは離れ、愛知県・知多で二度目の製油所勤務をしていた。今度は3年間、ゆったりと現場で過ごす。好きなゴルフの腕も上がり、オフィシャルハンディが12までになる。本社へ戻り、取締役になった94年夏、社内報に「人間的により大きくなるための努力、すなわち知性や感性を磨くことに、いままで以上に励んでいきたい」と書いた。本音だった。

ビジネスマンには、知性も感性も必要だ。仕事に関係ない人とも、話をする機会はある。そんなとき、例えば人生論や哲学論なども、語れなければいけない。それまでに会った米国の経営者には、シェイクスピアを語ったり、音楽への造詣が深かったり、世界が広い人が多かった。日本の経営者には、そういうところが欠けている。仕事の領域には詳しくても、間口が狭い。自分は、そんな仕事人間で終わりたくなかった。

でも、それは、ずっと先に実現すべき夢として遠のいた。96年、石油製品の輸入を制限していた法律が廃止となり、業界は自由化の荒波を浴びた。大阪、東京で支店長を歴任し、激しい価格競争の現場へ飛び込む。原油の調達、製油所での精製、製品の販売――いつのまにか、経歴も「製販一貫」になっていた。歴代の役員に、そんな例はまずない。2002年4月、当然のように、ジャパンエナジーの社長に就任する。

社長としての第一声で、役員・社員の能力開発と新規事業への取り組みを、自分の使命として掲げた。直後のジャパンエナジーと日鉱金属の経営統合、それによる金属事業と石油事業を両輪とする態勢固め、持ち株会社体制の構築、さらには新日本石油との経営統合による「JXホールディングス」の誕生。すべて、その使命を達成するための道筋だ。

その過程で、反対者もいた。そんなとき、始めから答えを決めて「こうするぞ」とはやらない。由縁を説き、意見を聞き、「必雑利害」を通す。ただ、必ずしも「利」ばかりではなく、「害」も残る。二度目の大きな経営統合に踏み切ったいま、あらためて「高萩流」が求められている。信条の「採算重視」をどう浸透させるか。新たな「高萩流」が始まっている。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)