チャレンジ動画を撮影するために命を落としたり、家族を危険にさらしたりする人たちがいる。なぜ彼らはそうした「バカ」な行為をしてしまうのか。フランスのメディア学者フランソワ・ジョストは、「SNSが人をバカにしているのではなく、人がバカになる条件を整えている」と指摘する――。

※本稿はジャン=フランソワ・マルミオン編、田中裕子訳『「バカ」の研究』(亜紀書房)の一部を抜粋・編集したものです。

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人間が「バカになれる条件」をSNSが整える

SNSからすべてが始まったわけではない。SNSが過去との断絶をもたらしたわけでもない。それについては、近著『デジタル時代の行動における悪意(La Méchanceté en actes à l'ère numérique)』〔未邦訳〕ですでに明らかにしている。本書でわたしはSNSを、ドイツ人哲学者のカントにならって〈悪意の先験的条件〉と呼んでいる。つまり、「ネット上で悪意を表明するのを可能にする条件」こそがSNSなのだ。

〈悪意の先験的条件〉としてのSNSの特徴は、大きく3つに分けられる。ひとつ目は、著述家で映画作家のギー・ドゥボールが述べた〈スペクタクルの社会〉だ。ここではすべての経験が可視化される。つまり、人間の生活がスペクタクル化され、うわべだけになる。状況主義者であるドゥボールは、これを次のように定義した。

「スペクタクルとは、イメージの集まりではなく、イメージによって媒介される社会的な人間関係のことである」

この定義は、そっくりそのままフェイスブックに転用できる。フェイスブックでは、写真(イメージ)こそが、ユーザーの人格を作り、「友だち」との関係性を築く。フェイスブック社会ではあらゆる媒介の中心にあるのがイメージだ。ツイッターの場合も、いくつかの研究によると、投稿に写真を添付することでリツイートの数が大幅に増えるという。

ふたつ目の特徴は、何でも手当たり次第に他人を裁こうとする傾向だ。一九八〇年、ミシェル・フーコーはこのように述べている。

「なぜ人間はこんなにも他人を裁くのが好きなのか。おそらく、人類に与えられたもっとも簡単にできることのひとつだからだろう」

近年、動画投稿サイトやネットコミュニティサービスが多様化し、個人がコメントを書きこめる場が増えたため、この「裁き愛」にますます拍車がかかった。ユーザーはハンドルネームによって身分を隠すことができるため、リスクを負わずに過激な発言ができる。自分の悪口を言った者の正体を暴くために、IPアドレスの裏側に隠れた個人を特定しようとする人はそれほど多くないからだ。