「システム部門は金食い虫に見られ、支店では邪険に扱われる。嫌われないよう、事前に営業マン全員の名前を覚えて懐に飛び込むと結構可愛がられました。そうして集めた各支店の情報を今度はレポートにまとめ、本社のエリート部門、経営企画部に持って行きました。生の情報ですから重宝がられ、以降、何かと呼ばれてはアイデアを求められました。

ファミコンやプッシュフォンを使った株取引、支店間イントラネットなど、出す企画はほぼ通る。実質、経営企画部付きのお抱え軍師みたいになって、お歴々にも拝謁できる身になりました」

ところが、第一証券は不良債権を抱えた親会社長銀ともども経営危機に陥る。齋藤氏はシステム部門独自で生き延びる道を探った。最終的に仲間とネット証券設立に動き出したところで、当時伊藤忠商事でIT部門担当だった小林栄三・現社長と出会う。

「伊藤忠は人が、ぼくは看板がほしかった。マイクロソフトにも出資を仰ぎ、自前のシステムを連日徹夜でつくって、日本オンライン証券を1999年に設立しました。

ただITバブル崩壊で市況は低迷。増資が必要でもどこも応じない。ぼくは取締役部長として個人で駆け回り4000万円集めました。親戚にも10万円単位で借り、消費者金融へも通った。そのときはトンネルでもゴールは先に見えていました。それでも本当にきつかった。

次に必要なのは銀行のブランドでした。旧三和銀行系のネット証券も足踏みしていたので、三和、伊藤忠双方に合併の利点を説き、2001年にカブドットコム証券を立ち上げたのです」

情報システム部長から翌年、最高業務執行責任者に就任。1年目に黒字化、2年目に累損解消、3年目に東証一部上場を果たし、ついに代表執行役社長としてMUFGの社長会に名を連ねるに至る。