今日風にいえば、システムの中に生活世界を作ろうというわけだ。言い換えれば、専門家の知識を分かりやすく民主化するだけでなく、民主主義を科学的な仕方でバージョンアップしようとしたということだ。

人の暮らしの中には変わった部分もあれば、変わらない部分もある。それでも、花森の時代と比べれば、私たちの生活はやはり変化したといえるだろう。そうだとすれば、私たちは、そろそろ自分たちの生活に合わせて、政治風土を作り変えてもいいのではないか。その方が、一内閣を云々するよりも、ずっと意味があるはずだ。

恐れずに受け入れることができれば社会はまだ進化できる

善意による支配において特徴的なのは、ある選択肢が道徳の名で与えられ、これに挑戦する可能性が理性の名で制限されるということである。(畠山弘文『官僚制支配の日常構造 善意による支配とは何か』三一書房、1989年)

堀内進之介『善意という暴力』(幻冬舎新書)

「最適化されたシステム」は、その選択肢の中から選ぶのが、もっとも合理的だと言ってくるかもしれない。だが、元々人は自由だ。提供されたものの中から選ばなければならない理由はない。少し「視点を移動」することで、私たちの社会に無意識のように君臨している〈知〉を、意識へと転換し、「常に人が見ていながら、見えていないもの、見損なっているものを、はっきりと見えるようにする」ことができる。次は、それに合わせて社会を変えればいい。

そんなこと、とても無理だと言うかもしれない。だが、よく考えてみてほしい、本当にできない理由があるのだろうか。何となくそう思い込んでいるだけで、実は大した理由なんてないのではないか。「徳は孤ならず必ず隣あり」、変化を恐れず、受け入れることができれば、私たちの社会はまだ進化できる。本書があなたにとって、社会を思い出し、自由を恐れないための、きっかけになってくれることを願っている。

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