先の議論を踏まえれば、総理大臣「なのに」分からなかったのではなく、総理「だから」分からなかったのだ。権力者たちは自分では「分かっている」つもりだし、しばしばそう言いたがる。だが、実は、彼らは、支配するのに「都合の悪いこと」は知らないし、知っていても簡単に忘れる。そうするのがもっとも合理的で、そのように「最適化」されているからだ。彼らは決断しているつもりで、実はさせられているだけかもしれない。

相手と同一化することと理解に基づく共感は別のものだ

だが、私たちは理解した相手に同一化をしてしまうことを、やめられないのだろうか。そんなことはないと、孔子は言う。

宰我、問いて曰わく、仁者は之に告げて井に仁有りと曰うと雖も、其れ之に従わん。子曰わく、何為なんすれぞ其れ然らんや。君子は逝かしむべきなり。おとしいるべからざるなり。欺くべきなり。うべからざるなり。(『論語』雍也第六・二十六)

生意気な弟子が、師匠を困らせようと意地悪な質問をしている場面だ。現代語風に思い切って意訳すると「先生、思いやりとか、当事者に寄り添うとか言いますが、一番かわいそうなのは、誰からも同情されないテロリストや麻薬中毒者、ヘイトスピーチをするような連中ではないでしょうか? もしも、そうだとしたら、思いやりの深い人は、そういう連中に寄り添ったがために自滅することになりませんか?」

「どうして、そんなことがあるだろう。たとえ騙して『井戸の傍までは連れていけても、落とすことまではできない』(行為の直前までは理解しても、一緒に落ちることが共感ではない)のであって、情緒的な想像的同一化と理解に基づく共感は別のものだ。私たちは権力者を理解しても、彼らに同一化する必要はない。彼らが知らなければ分からせ、忘れていれば思い出させればいい。国民ひとりの責任は、それで十分足りている」

生活に合わせて政治風土を作り変えてもいい

戦時中、戦意高揚のための宣伝に協力したといわれる花森安治は、その反省から戦後『美しい暮しの手帖』を興す。それは、単なる雑誌社というより消費者運動と経済的に自立した民間の研究所を兼ねていた。各社の製品の性能を比較するテストを誌上で行い、そのために雑誌に広告を入れなかった。

彼は「民主々義の〈民〉は 庶民の民だ ぼくらの暮しを なによりも第一にする ということだ ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ それが ほんとうの〈民主々義〉だ」(「暮しの手帖」第二世紀八号、一九七〇)と言う一方で、「一つの内閣を変えるよりも、一つの家のみそ汁の作り方を変えることの方がずっとむつかしいにちがいない」と言った(「美しい暮しの手帖」九号、一九五〇)