「難儀な生活」を見るために巡幸をしている

1878年9月14日、北陸・東海道巡幸で新潟県を訪れたおりのこと。この日も朝から晩までハードスケジュールで、天皇の体力も消耗が予想された。そこで侍従が心配して、定刻よりも早く就寝することを勧めた。しかるに天皇はこういって聞き入れなかった。

巡幸は専(もっぱ)ら下民の疾苦を視るにあり。親ら艱苦(かんく)を嘗(な)めずして争(いか)でか下情に通ずるを得べき。毫(ごう)も厭ふ所なし。

あえて関西風に意訳すれば、「難儀な生活をみるためにこれ(巡幸)やってんやろ。わしも辛い思いせんかったら、下々のこともわからんやん。全然構わんで」とでもなるだろうか。筆者が大阪出身なので、高雅な京都弁でなくて申し訳ないが――。この言葉は、明らかに天皇としての自覚のあらわれだった。

君主としての振る舞いを身に付けつつあった

同じような発言は、その少し前にも確認できる。

先述の「住みなれし花のみやこの初雪を」の御製を詠んだ1877年の京都滞在中に、天皇は脚気にかかった。東京に戻ってから回復したものの、再発が危惧された。脚気はビタミンB1の欠乏症だが、当時はその原因がわかっていなかった。そこで侍医から転地療法の勧めがあり、岩倉具視が天皇にその旨を伝えた。1878年4月23日のことだった。

これにたいし天皇は、つぎのように応じた。

転地療法可なるべし。然れども脚気病は全国人民の疾患にして、朕一人の病にあらず。
土地を移すの事、朕之れを能くすべし。然れども全国の民悉(ことごと)く地を転ずべからず。
故に全国民のため別に予防の方法を講ぜんことを欲す。

「転地療法もええけど、脚気はみんな苦しんどる病気やろ。わしだけ特別扱いせんといてくれ」。天皇はそう述べた上で、西洋医学だけではなく漢方や和方医学も用いて、脚気の原因や治療法を探るべきだと指摘した。

多少の美化もあろうが、20代なかばの天皇は、地方巡幸などを通じて、君主としてふさわしい振る舞いを身に付けつつあった。

辻田 真佐憲(つじた・まさのり)
作家・近現代史研究者
1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。2012年より文筆専業となり、政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』『大本営発表』(すべて幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)など多数。監修に『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌/これが軍歌だ!』(キングレコード)、『満州帝国ビジュアル大全』(洋泉社)などがある。
(写真=iStock.com)
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