浅草寺は関東最古の寺院である可能性が高い

地震に強い五重塔だが、1945年3月10日の東京大空襲で焼け落ちる。本堂や雷門なども焼失するが、これが貴重な発見をもたらした。伝承では、浅草寺は推古帝の時代に創建され、前述の通り、平安期に公雅が再興したとされる。だが、仏教伝来間もない推古の建立というのはさすがに信憑性に欠け、学術的には漠然と鎌倉以降の創建と考えられていた。

しかし、本堂の焼け跡から布目瓦(ぬのめがわら)が発見され、それをきっかけに発掘調査が行われると、土師器(はじき)・須恵器(すえき)・中世陶器・和同開珎などが見つかった。これにより、浅草寺の創建年代は平安から奈良にまでさかのぼりうることが分かったのである(坂詰秀一「浅草寺創建年代考」1970)。

こうして浅草寺が都内だけでなく、関東最古の寺院である可能性が判明したのだが、終戦後の浅草からは塔が消えてしまう。最初に再建されたのは仁丹塔である。仁丹塔は大阪の医薬品会社・森下仁丹の広告塔だ。関東大震災後の1932年に、雷門通りと国際通りの交差点に建てられたが、戦争中、金属類回収令のために撤去されていた。

1954年、凌雲閣を模して約45メートルの仁丹塔が再建される。戦前と比べ3倍の高さになったが、あくまで広告塔だ。窓もあったが、一般人が入ることはできなかった。1950年代には、広告塔の高さを土台の3分の1までとする条例ができ、仁丹塔を短くするという話もあったが、地域住民の陳情で残された。アレクサンダーとバルトが論じた通り、非実用的でありながら、どこからも見えるという塔が、自然と街のシンボルになっていたことを示すエピソードである。仁丹塔は、1986年に老朽化のため解体された。

フジ社長が解体を即決した「ポニータワー」

1967年、仁丹塔に続いて、浅草寺境内でも塔が再建された。だが、それは五重塔とは全く異なるものだった。塔の名は、開業当初は「東京スペースタワー」だったが、間もなく「ポニータワー」に改称された。株式会社ポニーキャニオンの前身の会社が出資し、その名が冠されたのだ。ポニータワーは110メートルあり、スイス製の回転昇降式の展望台が上下するという近代的な塔であった。

開業当時のポニータワー。ドーナツ型の展望台が見える。(写真=時事通信フォト)

しかし、当初からポニータワーは「むき出しのコンクリートが景観を乱す」と評判が悪く、経営もすぐに行き詰まる。凌雲閣の倍はある高さが売りだったが、実は10年も前に東京タワー(333メートル)が完成していた。さらに、ポニータワーの開業翌年には、日本初の超高層ビル・霞が関ビルディング(147メートル)も竣工した。完全に高さとタイミングを見誤っており、展望塔としてのインパクトは弱く、業績不振となったのだ。

そして1973年、浅草寺五重塔が再建されるが、この時にはポニータワーはすでにない。親会社であるフジテレビ社長が浅草寺を参拝した際、ポニータワーのあまりのみすぼらしさに驚愕し、五重塔の完成前に解体工事が始められたのである。