今の日本をつくったのはだれか。作家の伊集院静氏は、サントリー創業者・鳥井信治郎の生涯に触れ、「この情熱と夢が今の日本をつくった」と確信したという。最新作『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(集英社)では「日本に洋酒文化を」という夢に邁進した信治郎を描いた。伊集院氏はこれまで「企業小説」を書いたことはない。新分野に挑戦した理由とは――。
伊集院静氏

鳥井信治郎を書けば日本人の本質に迫れる

数年前、日本経済新聞社から連載小説の打診があった。そのとき、私が考えたのは「日本人の精神性とは何か」ということである。そこで、松下村塾での教育を通して人材を輩出し、近代日本の礎を築いた吉田松陰を取り上げようとした。しかし、資料を読み込んでも、坂本龍馬や西郷隆盛とのつながりが見出せない、なかなか人物が立ち上がってこない。

そんなとき、東日本大震災におけるサントリーの被災地支援の話を聞いた。大々的にはPRしていないものの、陰でしっかり復旧を助けている。また、私は縁あって同社の新聞広告で新成人や新社会人へのメッセージを書いてきた。そんな折に接する社員に感じたのも、誰もが会社を愛している。そして、とにかくよく働くということだ。

サントリーといえば、創業者の鳥井信治郎である。大阪船場に生まれ、やがて丁稚奉公をしながら、商いの原点を学んでいく。彼は後に「売り手と買い手だけが儲かる商いは長続きしまへん。周りの皆がようなるのがええ商いだす」と話しているが、それは“三方良し”の経営にほかならない。この思想を、幼い頃に母親から教わった“善行と陰徳”の考え方が一層強いものにしたらしい。彼を主人公にすれば日本人の本質に迫れると確信し、日本経済新聞に提案すると快諾してくれた。

小説の序章で私は、すでに寿屋洋酒店(サントリーの前身)を開業していた信治郎と、まだ自転車屋の小僧だった松下幸之助の出会いに触れた。どちらも、日本を代表する経営者だ。洋酒と電化製品という違いこそあれ、2人が“技術者”として日本経済を発展させたことに面白さを感じる。

自転車店に奉公していた幸之助は、修理の終わった自転車を納品に来て、ぶどう酒の瓶に見惚れる。信治郎は、そんな幸之助の頭をやさしくなで「坊、気張るんやで。お前には船場中の神さんがついてくれてはるからな」と笑いかけた。この何げない励ましは幸之助の心に刻まれた。少年はこの日の出来事を忘れず、信治郎を生涯、商いの師として敬愛し続けたという。