私の解釈では、アドラーは「水平的人間関係」を強調しています。人間関係を上司と部下、教師と生徒のような上下(垂直的)関係ではなく、個人と個人が対等(水平的)な関係を勧めているわけです。たとえば、上司に企画書をダメ出しされたとします。垂直的な関係では、上司に従うしかありませんが、水平的な関係であれば「上司は同じ1人の人間で、企画書をダメ出しするのは、私のことが嫌いだからだ。しょうがない」と解釈するわけです。そうして物事の因果の解釈を変えて、癒やしを得ようという話なのです。

しかし、実際の職場ではこのような水平的な関係である、一人称の心理学だけでは役立ちません。一人称の問題を二人称、三人称へと開いていく必要があるのです。

インターネットやスマホが普及し、誰もが自分に都合のよいものしか受け入れなくなっていると感じます。いつでも欲しい情報を手に入れることができるようになりましたが、自分の価値観に合ったものを探し、見つけて満足してしまう。その結果、価値がわからないものを拒絶してしまうのです。

このことは裏を返すと、人は新たな価値を理解できればどんな情報でも受容できることを示しています。価値が共有できていれば、記号(言葉や文字など)を見たときの理解は容易だし、他者の行為の理解もたやすい。逆に自分の持つ価値に固執すれば、それまで見たことのない行為を見ただけで拒絶してしまう。

自己というのは価値、記号、行為の三層構造になっています。このうち、記号の定義づけをしたのが認知心理学者のノーマンです。ノーマンはアップルやヒューレットパッカードでも活躍し、『誰のためのデザイン?』で、デザイン論をユーモアたっぷりに論じています。

▽部下の道標になりたいとき
『誰のためのデザイン?』
新曜社/D.A. ノーマン
ノーマンは認知心理学者でありながらアップルなどで開発者としても活躍した。おかしなデザインを、ユーモアを交えながら論ずる。
 

ノーマンは、ある行為を記号としてだけでなく、その裏にある価値観まで読み取らないと正しい答えは出てこないといっています。1つの行為に対しても記号、価値観まで踏み込まないと正確な理解ができないのです。しかも記号の表現自体がわかりにくい場合、人を間違った方向に導いてしまうとノーマンはいいます。

たとえば、足場の悪い岩場で最適な足の置き所に足跡(フットプリント)を配置すれば、登る人はこれを足の置き所と認識して間違いなく登れるので、これはよいデザイン。しかし、そのプリントが手の形だったら誤って手をついてしまうかもしれません。それは悪いデザインということになります。