政党として最悪の分裂になった理由

【塩田潮】2015年8月、橋下徹・大阪市長(当時)と松井一郎・現大阪府知事が維新の党を離党し、そこから維新分裂が始まりました。11月に橋下氏ら大阪系と19人の国会議員が参加して新党「おおさか維新の会」が結党されましたが、大阪系の人たちはなぜ維新の党離党、新党結成という行動を取ったのですか。

馬場伸幸氏(おおさか維新の会幹事長・衆議院議員)

【馬場伸幸・おおさか維新の党幹事長(衆議院議員)】直接の引き金は15年9月の山形市長選挙の応援問題でした。向こうは向こうの理屈があるでしょうけど、当時の維新の党の柿沢未途幹事長が党の意向を無視した形で応援に行き、問題の処理もまったく行われなかった。ですが、この問題だけでなく、労働者派遣法改正でも15年の通常国会の初めの頃からおかしな流れがありました。私は国会対策を担当していましたが、党幹部はとにかく「反対」と言う。われわれは、自民党でも民主党でもない。政策や法案の対応は、国民生活にいかにメリットがあり、国民のみなさんのお役に立てるかどうかという物差しで判断すると標榜していたけど、労働者派遣法については、われわれが対案をつくったりしても、党の上のほうから、とにかく反対という意向が出てくる。結局、うやむやな形のままで決着しました。

次に安全保障関連法案の問題になった。紆余曲折がありましたが、われわれは大阪で橋下さんを講師にして勉強会を行い、方向性を決めて、それに沿った対案をつくって国会の安保特別委員会に提出することにしました。必要な部分は法案の修正を求めるという考え方でやっていましたが、このときもなぜか対案がなかなか出てこなかったのです。維新の党の中でも、向こうの人たちとは路線が違うのかなと思い始めた。是々非々路線を貫く、与党でも野党でもないというわれわれのスタンスが理解されていないのでは、とわかってきたんです。

【塩田】維新の党の分裂は、15年5月の大阪都構想の住民投票の際に自民党、公明党、共産党と組んで反対した民主党と連携や合流を目指そうとする非大阪系と、大阪都構想の実現を推進する大阪系が、将来の政界再編構想で対立したのが最大の原因だったのでは。

【馬場】内部での路線や考え方の違いがメインで、山形市長選挙の問題は引き金ですよ。

【塩田】橋下さんら大阪系の離党表明から正式に新党を旗揚げするまで2ヵ月以上もかかり、「離婚成立」までの協議が相当、難航した印象があります。

【馬場】向こうの松野頼久さん(維新の党代表)、今井雅人さん(維新の党幹事長)、こちらの片山虎之助さん(おおさか維新の会共同代表)、私の4人で協議を、という話があり、最初は党の分割、つまり分党という形に、ということで交渉を始めたんですが、成案ができた後に引っ繰り返るようなことが何度もありました。15年11月に大阪府知事と大阪市長のダブル選挙があったので、その間はこちらの事情で交渉が止まり、ダブル選挙終了後、話し合いを再開させて決着したという経緯でした。

途中、3回くらい、不満もあるかもしれないけど、円満な形でやろうと思えばこんな感じですよねというところまで行って、95%程度まで交渉がまとまったことがありました。向こうがぎりぎりのところでパーンと掌を返すようなことをしてきた。夜中の12時まで返事を待っていたこともありましたけど、うまくいかなかったんです。

向こうは国会議員が26人いましたが、旧民主党系が13人、旧結いの党系が13人で、双方の意見が違っていて円満な分党とならず、泥沼化しました。最後は臨時党大会を大阪で開き、党解散と決めました。政党交付金も、両党への分配ではなく、必要経費を除いた分を国庫に返すことになった。政党としては最悪の分裂の形になりました。