無理と言われればやってみたくなる

【塩田潮】27歳で銀行を辞めて、アメリカの「タリーズ」の日本での独占契約権を獲得し、28歳で日本での1号店を開店しました。なぜその道を目指したのですか。

【松田公太(日本を元気にする会代表・参議院議員)】新しいことにチャレンジするのがすごく好きなんです。無理と言われれば、言われるほどやってみたくなります。誰かが勇気を持って新しいことにチャレンジしないと、イノベーションは絶対に起こりません。

松田公太氏(参議院議員・日本を元気にする会代表)

本当は寿司屋を海外でやるつもりでしたが、逆にアメリカで見つけたコーヒーを日本で広めることになりました。銀行勤務時代、有給休暇を取って、以前住んでいたボストン郊外のレキシントンで行われた友人の結婚式に出たとき、おいしいコーヒーに出合ったのがきっかけです。

私が高校生のときは、薄い味の焦げたコーヒーというのがアメリカのコーヒーだったので、久々にアメリカに戻って、スペシャルティコーヒーを飲んだら、おいしくてびっくりしました。日本にはなかったので、「これを日本でやろう!」と思いました。当時、スターバックスが約1000店舗、シアトルズベストコーヒーが約300店舗というような状況でした。スタバにも行きましたが、相手にされず、シアトルズベストコーヒーは副社長が会ってくれましたが、「君は27歳で経験も金もないし、無理だろう」と。タリーズはその頃、たった数店舗しかない地元の小さなコーヒー屋だったのですが、CEOと話すことができ、なんとか最後は「やってみろ。金の援助はできないが、ロゴマークを使わせてやる。コーヒー豆も送ってやる」と言ってくれたので、始めました。ですが、それ以上の援助はなく、マニュアルもなかったので、日本のタリーズは私がゼロからつくった。アメリカとはまったく別物なのです。

【塩田】どうやって日本で大きなコーヒーチェーンに。

【松田】交渉に1年くらいかかり、実際に日本で始めたときには、実はすでにスタバが大型の1号店を銀座に開店していて、実質的には2番手になってしまいました。スタバの近くに19坪の地下の店を開いたのがタリーズ1号店です。開店当初は、まったくみんなに知られず、客も来ない。初めの3ヵ月は大赤字で潰れる寸前まで追い込まれました。「おいしいコーヒーの店がある」と自分で叫んで行列ができるようにしたり、ビラを配ったり、王子製紙や三越に売り込みに行ったりとか、いろいろやって、なんとか黒字にして神谷町の2号店を開店するまで持っていきました。

銀座店は家賃が高かったので、2号店はテイクアウトだけで、と考えました。その次の3号店でブレイクしました。三井物産の役員と知り合いになり、三井物産のロビーフロアで店を開いたところ、館内人口4000人のビルで、1日1000人くらいの来店がありました。

スタバが大型店舗を展開していたので、それ以降、私は小型店舗をどんどん開発していきました。タリーズとスタバとでは、蟻が象に向かうようなものです。真っ向勝負は無理です。違う仕組みを考えなければと思い、病院に店舗をつくるなど、「クローズド店舗」と呼ばれる新しいビジネスモデルも考えました。金をかけずにアイデアを絞って出店し、たまたま成功して拡大できたのです。

銀行の仕事よりも断然、面白かったです。1号店をオープンするのに7000万円も借金しました。失敗すれば路頭に迷ってしまう。絶対に失敗はできないし、イチかバチかというところがありました。いろいろなアイデアを出せば大手と闘えると信じていた私は、若かったんですね。でも、金だけではない、資金力がなくても闘えるはずだという思いがすごくありました。