「感動」の舞台装置がリスクを覆い隠す

いよいよ、「夏の甲子園」の季節がやってきた。今年で第97回大会を数える日本のアマチュアスポーツ最大のイベントである。都道府県を代表する高校球児が、「深紅の大優勝旗」を目指して闘いを繰り広げる。

その高校球児の姿を見て誰もが気になるのは、甲子園球場の「暑さ」だろう。「そこまで暑いなかでやらなくても……」と心配の声も多く聞かれる。しかし高校野球にとっては、「『暑い夏』と『甲子園』は欠かせぬ“舞台装置”である」(産経WEST/2013年8月15日)。「暑い夏」に、選手が必死にプレイする姿に、私たちは甲子園固有の魅力を感じる。熱中症に気をつけねばならないほどに暑いからこそ、甲子園は盛り上がる。高校野球を、空調の効いたドーム型球場で開催するなど、ありえないというわけだ。

暑さが高校野球を盛り上げる重要な装置だとしても、それはつねに熱中症という負の側面と紙一重である。暑さは、甲子園大会を引き立たせる魅力であると同時に、選手においては健康面での重大なリスクファクターでもある。現時点では、球場としてもまたチームとしても、諸々の熱中症対策が講じられているものの、「なぜ、あの炎天下のなかでスポーツをしなければならないのか」という根本的な訴えは、ほとんど放置されている。

さて、本記事で考えたいのは、「節度ある甲子園」である。高校球児の姿から、私たちは毎年たくさんの感動と興奮をもらっている。でも、少しばかり彼らの頑張りに頼りすぎてはいないだろうか。彼らの身体的な負荷に寄りかかって、感動と興奮をもらいすぎてはいないだろうか。

高校球児の身体を蝕むのは、暑さだけではない。投手の連投や過剰な投球数も、甲子園につきものの問題である。2013年「春の甲子園」大会では、愛媛県済美高校の安楽智大選手が、決勝までの5試合で計772球を投げ、話題となった。かの斎藤佑樹選手も夏の甲子園で948球、松坂大輔選手も767球を投げている。

投球数だけを聞けば、選手生命を潰しかねない異常な数なのだが、それも甲子園の舞台装置に乗ってしまうと別の物語へと変容する。暑さのなか、連日の投球、延長戦に入っても1人で投げ抜く姿に、私たちは心を奪われ、もはや負けても勝っても、投手とともに涙することになる。

投手の身体に重大なリスクが生じていても、感動や興奮がリスクを過小評価させる。あるいは感動や興奮をむしろ高めるほうへとリスクが活用される。熱中症を心配するよりも、暑さのなかで闘う姿に感動してしまう、あの感覚と同じである。これは、拙著『教育という病』(光文社新書)のなかで指摘した、「巨大組体操」や「2分の1成人式」にも当てはまる。感動や興奮は、子どもの心身への負荷を軽視または無視して、当の活動を見事に成り立たせている。