インターネットというメディア

現在はデジタルメディア、インターネットの時代である。そこには無数のコンテンツがあふれている。しかしマクルーハン流に言うと、それらコンテンツよりもインターネットというメディアの方が人びとに大きな影響を与える。

サイバーリテラシーのテーマは、まさにこのインターネットというメディア、そのうえに成立したサイバー空間が私たちの感性・思考にどのような影響を与えるかを考えることである。だからサイバーリテラシーはマクルーハン理論の延長線上にある。メディア決定論というと、政治、経済、社会上のさまざまな要因を軽視するものとして批判されることが多いが、インターネットが私たちの生活全般をすっぽり覆うようになったいま、この技術環境への考察を抜きに現代社会を語ることは難しい。というわけでサイバーリテラシー・プリンシプル(26)は<メディアはメッセージである>としよう。

この点に関して興味深いエピソードを2つ上げておく。

(1)かつてアメリカのハイスクールや大学で大流行したコンピュータ・ゲームMUD(マッド)プレイヤーの生態を観察した臨床心理学者、シェリー・タークルは、ディスプレイ上のいろんなウインドウをジャンプしながら時を過ごしている若者が「リアルタイムも一つのウインドウでの出来事にすぎない」と思うようになる例を紹介している(『接続された心』早川書房)。

パソコン上にいくつかのウインドウが開いている。1つはリアルな自分に近いハンドル名を使っている、もう1つは女性を名乗るアバターである、第3のウインドウの自分は犬になっている、とする。そこに4番目のウインドウが開いていて、それが現実世界の自分である。肉体をもつ自己には性別、身長、容姿、職業など、いろんな制約がある。4つのウインドウを渡り歩いて生活しているのなら、4番目のウインドウはいらないのではないか、と考えても、あながち不思議ではない。

(2)ソーシャルメディアでの発言はツイッターに象徴されるようにどんどん短くなり、フェイスブックでは、「いいね!」ボタンを押すだけで賛否を示せるし、ラインなどでは文章抜き、絵文字だけのコミュニケーションも成立している。そのため、ネット上の発言はどんどん短絡的になり、他人を口汚く攻撃したり、他人の尻馬に乗って、あるいは日頃のうっぷんのはけ口として書き散らしたりする短文が幅を利かせるようになっている。もちろんそうでない書き込みもたくさんあるわけだが、ネット上で滝のような流れる二者択一的な思考の量的多さが、すでに無視できない影響力を持ち始めている。

これらのネットの傾向と安倍首相の思考・行動パターンはきわめて似ており、マクルーハン流に言えば、ソーシャルメディアが発達しなければ、安倍政権一人勝ち現象は成立しなかったかもしれない。

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