2015年6月23日(火)

なぜ情報を伝えるメディアそのものが情報なのか

サイバーリテラシー・プリンシプル(26)メディアはメッセージである

PRESIDENT Online スペシャル

著者
矢野 直明 やの・なおあき
サイバーリテラシー研究所代表

朝日新聞社で1988年にパソコン使いこなしガイド誌『ASAHIパソコン』、95年にインターネット情報誌『DOORS』を創刊、初代編集長をつとめる。2002年にサイバーリテラシー研究所を開設し、「サイバーリテラシー」という考えのもとに、現代IT社会における人間の生き方を模索してきた。この間、慶応義塾大学、明治大学、情報セキュリティ大学院大学、サイバー大学などで教壇に立つ。主著:『マス・メディアの時代はどのように終わるか』(洋泉社)、『インターネット術語集』(岩波新書)、『インターネット術語集II』(同)、『サイバーリテラシー概論』(知泉書館)、『総メディア社会とジャーナリズム』(同、2009年度大川出版賞受賞)、『情報文化論ノート』(同)、『IT社会事件簿』(ディスカヴァー21)。

執筆記事一覧

サイバーリテラシー研究所(代表 矢野直明)=文
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「メディアはメッセージである」という警句

この「メディアはメッセージである」という言葉は、有名なマーシャル・マクルーハンの警句である。マクルーハンのメディア理論の真髄でもある。

人はメディアというと何よりもそのコンテンツが大事で、メディアはその内容を伝える手段でしかないと考えがちだが、マクルーハンは、いやそうじゃない、メディアの内容(メッセージ)よりも、その形式(メディア)の方が人びとにより大きな影響を与える(メッセージを送る)と言った。

それを「メディアはメッセージである」というちょっと意表を突く表現で示すところがマクルーハンならではである。彼はメディアは手段に過ぎず、要は使い方次第だといった考えを「麻痺を起こした技術馬鹿の陶酔である」と批判し、「ラジオの影響はラジオの番組編成とはまったく関係がない」とまで言った。

こういうふうに考えるとわかりやすいだろう。

映画は周囲から隔離された暗い部屋に静かに坐って、大きなスクリーン(銀幕)上の映像を見るもので、人はその画面に没入する。全感覚をそこで演じられるドラマに投入するわけである。だから勇ましいウエスタンを見てきた観客は、自分がカーボーイになった気分で、がにまたで歩いたりした(!?)。同じウエスタンを「お茶の間映画劇場」などのテレビで見る場合、テレビ画面を見ている視界には、部屋の窓とか家族の歩く姿とかが侵入し、キッチンで母親が料理する音や料理の匂いも漂ってくる。だから映画のような没入は起こらない。

内容は古くからある映画だが、テレビで放映することが映画を新しいものに変えていく。マクルーハンはメディアがラジオからテレビへ移るころの人だから、ラジオとテレビは違うということをさまざまに論じた。ラジオは「ホット」だが、テレビは「クール」だというのもその一つである。マクルーハンによれば、単一の感覚をぎっしり詰めて提供するメディアはホット、逆に単一、あるいは複数の感覚をまばらに提供するメディアがクールである(映画もホットである)。ホットなラジオの方が人びとを煽動するのに適している。

だから彼は、第二次世界大戦下のドイツでヒットラーがあれだけプロパガンダに成功したのはラジオを使ったからで、たとえばテレビを使ったとしたら、ああは成功しなかっただろう、と言っている。「ヒットラーの統治下にテレビが大規模に普及していたら、彼はたちまち姿を消していたことだろう。テレビが先に登場していたら、そもそもヒットラーなぞは存在しなかったろう」、「これらのメディアがヒットラーの思想をドイツ国民に効果的に伝えたという意味ではない。彼の思想などは、ほとんど重要ではなかった」(『メディア論』みすず書房)。

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