2014年7月11日(金)

「今しか、自分にしか、できないことがある」-寺本 進

コーチの名言+PLUS—闘う者を磨く「ことば」の力【第93回】

PRESIDENT Online スペシャル

著者
松瀬 学 まつせ・まなぶ
ノンフィクションライター

1960年、長崎県生まれ。早稲田大学ではラグビー部に所属。83年、同大卒業後、共同通信社に入社。運動部記者として、プロ野球、大相撲、オリンピックなどの取材を担当。96年から4年間はニューヨーク勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。日本文藝家協会会員。著書は『汚れた金メダル』(文藝春秋)、『なぜ東京五輪招致は成功したのか?』(扶桑社新書)など多数。

執筆記事一覧

松瀬 学=文と写真

寺本 進(セパタクロー日本代表)

てらもと・すすむ●1976年、広島県広島市出身。小学2年のときにサッカーを始める。サッカーの名門・山陽高校を経て、94年に亜細亜大学へ進学。高校3年のときにセパタクロー日本代表に初選出される。大学2年のときに日本代表に再び選出される。2002年、釜山でのアジア大会で銅メダルを獲得。04年、タイのプロチームに入団し、初の外国人選手として活躍する。現在はSC TOKYO所属。日本代表の主将も務める。
オフィシャルブログ「翔蹴る」
http://ameblo.jp/sepaktakraw/

初めての胴上げだった。仁川アジア大会代表選考会兼全日本オープン選手権の優勝を決めたあと、セパタクローの第一人者、寺本進は仲間の手で宙に舞った。

日本代表に選ばれ、5度目のアジア大会代表が決まった。38歳の寺本が顔をほころばす。

「胴上げは、うれしかったですね。久しぶりに、みんなに喜ばれる優勝だったのかな。最後のチャレンジ……。今度が、本当の意味で最後のアジア大会と決めています」

サッカーをしていた広島・山陽高校時代の1994年、地元で開かれたアジア大会のプレ大会で初めてセパタクローに触れ、この足を使ったバレーボールのごときスポーツに没頭してきた。

アジア大会出場は98年バンコク大会から2002年釜山大会、06年ドーハ大会、10年広州大会に次ぎ、5度目となる。前回大会では銅メダルを獲得した。だから、「目標は銅メダル以上のメダル」と言い切る。

セパタクローとは、東南アジアの各国で親しまれてきた伝統スポーツである。「セパ」はマレー語で「蹴る」、「タクロー」はタイ語で「(籐で編んだ)ボール」を意味し、ネットをはさんで足や腿、頭を使ってボールを相手コートに返し合う。「魅力は、ネット際での足を使った攻防です」という。

この20年で、セパタクローの日本での知名度はあがった。競技人口が「2000人ぐらい」。企業チームがないため、大学を卒業すると、ほとんどの選手が競技を辞めてしまう。寺本は亜細亜大学を卒業後、アルバイトをする傍ら、亜大のコーチを務め、自分の練習に取り組んできた。

「サッカーのトップリーガーの人と話をしていると、向こうは当たり前にフィールドがあって、当たり前にウエアーがあって、競技だけに専念していればいいようです。でも僕らは代表選手が自分たちでコートを探して、やっと確保したコートでも自由に練習をできなかったりします。ただ、だからこそ、よけいに練習できる喜びを感じるのです」

アルバイト生活ゆえ、家族には迷惑をかけてきた。遠征なども自腹なため、経済的には厳しい状況がつづく。3年前には子どもが生まれた。国際舞台からの引退を決意した。

「僕に限らず、みんな金銭的には家族に迷惑をかけています。世界で戦っているといっても、家族に迷惑をかけているのなら、カッコよくもなんともない。(妻は)迷惑と思ってないでしょうが、モヤモヤしたものがあるのです」

もっとも、セパタクローの道を選んだことを後悔はしていない。「自分を成長させてくれた」からである。176cm、65kg。「フツーの人間を、世界の舞台に引き上げてくれました」と感謝する。

モットーが「今しか、自分にしか、できないことがある」である。

「そりゃ、マイナースポーツですし、環境も大変です。世界一になっても、日本では脚光を浴びるわけじゃない。自分でも、なんでここまでやっているんだろう、と思うことがあります。でも、“今しか、自分にしか、できないこと”だと自分に言い聞かせることで前進していけるのです」

こんな「オンリー・ワン」の人生があってもいい。日本のエースがセパタクロー人生の総決算として仁川アジア大会に挑む。

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