「日本ならではのもの」が
国内立地の促進力となる

──高コストや円高圧力にもかかわらず、国内で生産を行うメリットは、主にどんなところにありますか。

柏木 建設・鉱山機械など産業機械メーカーのコマツの例を挙げましょう。

同社は2007年、タイヤ式の大型機械を生産する茨城工場と、自動車ボディ用の大型プレス機械を生産する金沢工場を稼働させました。マーケットは主に中国などのアジア諸国ですし、同社としては当然、現地との比較生産費分析も行ったのですが、国内立地の大きな決定要因は、国内の協力会社や子会社にありました。

彼らがもつ機能部品の加工技術は欠かせなかったのです。例えば茨城工場へは、大型ダンプトラックやホイールローダーのエンジン、ラジエーター、鋳造部品等が富山県の氷見や栃木県の小山、真岡の加工会社などから届きます。また、製品の輸出に関しては、各工場に最寄りの茨城港、金沢港が利用されています。

コマツ以外には、日本人労働力の確保に主なメリットを見いだしている企業のケースも目立ちます。

コマツの坂根正弘会長は、以前に弊誌インタビューに答え、「海外での販売や生産へ出て、企業買収などもやってきた結果、やっぱり『日本ならではのものがある』ということに気がつき、日本をベースにする方向へ舵を切り直した」と語った。

「日本ならでは」については、「中小企業の裾野が広く、それぞれが、かなりの実力を有している。海外に出て気がついたのは、日本ほど、素材から始まって個々の部品に至るまで、あらゆる良質なものをそろえることができる国は、世界中にない」と述べている。これは、柏木教授が「『輸出立国モデル』の礎」と評した国内の企業集積が、なお健在であることを裏づける発言といえそうだ。

オースティン・モデルに学び
明日の日本型産業集積へ

柏木教授は、日本の産業集積が将来的にも生き残るため倣うべき道筋として、かねて米国のオースティン・モデルを挙げている。オースティンは、テキサス州の州都。世界有数のパソコン企業、デルの創業地でもある。

──オースティン・モデルとは、どのような発展形態なのですか。
デル創設者のマイケル・デルも学んだ、テキサス大学オースティン校。オースティンの産業集積をバックアップした存在。

柏木 一言でいえば、誘致型の企業集積を基盤に、内発型発展へ転換した成功例です。1966年から85年までの20年間に、オースティンの人口は約14万人から76万人まで増えるほど急速な発展を遂げました。その先頭に立ったのは、66年にテキサス大学オースティン校に招かれたG・コズメツキー博士です。博士が地元の産・官と協力し、IBM、モトローラなどの企業誘致や、コンピュータ業界の共同研究機関(MCC)の誘致を果たしました。

さらに、日本の半導体に対抗する目的で米国政府と業界が組織したプロジェクトの誘致にも成功。企業、人、資金とも自然と集まるようになりました。スピンオフも起こり、博士はインキュベーションにも取り組んで、一時は100社以上が育成されたといいます。

そうなると、会計事務所や弁護士事務所もできるし、住民の増加を受けて多様な分野の企業が増え、地域経済循環が活発化しました。自然食品などのスーパーマーケットとして有名なホールフーズ・マーケットも、78年にこの街で開かれた店が始まりです。デルの前身の創業は、84年のことでした。

──オースティン・モデルに最も学ぶべき点は、どこにあるでしょうか。

柏木 産業の集積とは、つまるところ人が集まるということです。コズメツキー博士という存在も大きかったのですが、研究開発に携わる多くのクリエイティブな人材が集まり、あるいは育ち、他の地域へ流出しなかったことが注目されます。

とりわけ日本の場合、唯一の資源ともいわれるのが、人材です。ある地域に既存の人材と、他地域からの異なった視点をもつ人材が出会うことも、新たな価値創造の出発点になり得ると、私は考えています。

そこで私は昨年、熊本、埼玉、神奈川というバラバラな地域の中小メーカーの経営者らを、気仙沼へ連れて行きました。すると、なかには漁業に着目したメンバーがいたのです。海産物を材料に、加工食品、ひいては機能性食品を開発するアイデアをめぐらしたようです。こうして現場を訪ね、実際に見聞することで刺激を受けてこそ、創造性が働き出すのです。

もう一つ、人材といえば大学です。オースティンもそうであったように、大学の頭脳も活用すべきです。そして大学がもつシーズを探すだけでなく、企業側がもつシーズやアイデアを、大学の研究人材に育ててもらうという手も考えられるでしょう。

日本型産業集積をさかのぼると、その原型は、冒頭に述べた大田区などの京浜地区に見られるというのが私の持論です。しかし今後、首都圏を離れた他の地域でも人材を重要な核として、新たな日本型産業集積が構築されることを期待し、私も引き続きサポート活動に取り組んでいきたいと思います。