ロシアによるウクライナへの侵攻開始から8カ月。戦況は激化する一方で終結の兆しは見えない。そんな中、日本在住ロシア人のひとりであるタレントの小原ブラスさんは、ロシアの祖父母らと交流してきた経験から、侵攻に至るまでのロシア市民の知られざる実情を明かす――。

※本稿は、小原ブラス『めんどくさいロシア人から日本人へ』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

貧しかったソ連時代の思い出を楽しそうに話すロシア人たち

僕が生まれたロシアという国について、日本の多くの人は知らないだろうなということを少しお話ししたい。言わずもがな、ロシアは1991年のソ連崩壊まで、社会主義国だった。ソ連といえば貧しく、何かがあればすぐに弾圧、粛清されるような暗いイメージを持つ人が多いかもしれないが、ロシア人は不思議とよく「ソ連のあのころは」という話題を楽しそうに話す。

タレントの小原ブラスさん
タレントの小原ブラスさん

外でお酒を飲む習慣があまりないロシアでは、友人知人の家に集まり、みんなでお酒を飲むのが一般的だ。週に1、2回はそうした宅飲みパーティーが行われている。外ではあまり笑わないロシア人も、このときばかりはしこたまお酒を飲んで酔っ払い、信じられないくらいに大笑いをする!

やっとの思いで手に入れたソ連にはない質の良い外国製のストッキングを、穴が開いても縫い目が見えないよう髪の毛を糸の代わりにして、繕ってはいていたという話や、外国製の運動靴を外で履いて汚れるのが嫌で、裸足で通学して、学校の中だけで履いていたという話。政府の政策でお酒が禁止されたときに必死に家でサマゴン(密造酒)を作って、どっちのサマゴンのほうがうまいか皆で競い合った話。僕が聞いている分には、まったくうらやましいとは思えない状況なのだが、物がなく貧しかった時代の話を、ロシア人は一様に「楽しかった」と回想しているのだ。

誰かを無償で助けることに何の疑問もなかった

社会主義下のソ連では、土地や家は国のもの。自分と他人との所有物の垣根が低い社会だった。そうした社会では、誰かが特別裕福なわけでも貧乏なわけでもない。みんなが一様に貧乏だったので、食べ物を分け合い、誰かの家に手伝いに行ったり来たりして、支え合って暮らしていた。誰かを無償で助けることに何の疑問も持たなかったゆえに、貧しいながらも人と人のつながりは強固で、楽しく暮らせていたのかもしれない。

祖母の話ではソ連崩壊前までは自分の物と他人の物の差が薄かったという。例えば集合住宅の前にあるベンチが壊れていたり汚れたりしていると、誰かがなおしてくれていて、町も綺麗だったのだ。社会主義から資本主義に変わることで、これは私の物、これは違うという線引きがハッキリしたことで、自分の物ではないベンチや公共の物へ積極的に関与する人が減り、お金にまつわる争いごとが増えたのだとか。