東大総長推薦の教師が「帝王学」の講義

この御学問所は、まさに将来の天皇のための教育機関だった。だから、カリキュラムの中で「倫理」がとくに重視された。これこそ、いわゆる“帝王学”にあたる科目だったと言ってよいだろう。しかし、それが重要な科目であればなおさら、誰がそれを担当するのかが大きな意味を持つことになる。

そこで、学界の最高峰というべき東京帝国大学(今の東京大学)総長の山川健次郎に、人選を依頼した。しかし、「大学教授の中には1人も適任者はいません」と言って、本人も固く辞退した。その上で、唯一その任にふさわしい人物がいるとして推薦したのが、私立「日本中学校」校長の杉浦すぎうら重剛しげたけだった。

その地位・肩書は、世間的には何ら重みを持たない微々たる存在だった。だが、東大総長が自信を持って唯一の人物として名前を挙げたことは重大だ。結局、肩書的には教授陣の中で最も見劣りする杉浦が、御学問所で最も大切な「帝王学」にあたる科目を、たった1人で担当することになった(地理や数学、フランス語、習字などは複数が担当した)。

体裁ではなく、実質を重んじた結果だった。

影響を与えた杉浦の講義

杉浦は期待を裏切らない教育成果を上げた。たとえば、日本が総力戦に敗れ、被占領下におかれるという未曾有の経験をした時に、昭和天皇は国民に戦後復興の方向性を示すお言葉を発表された。それが昭和21年(1946年)の年頭の詔書(いわゆる「人間宣言」)で、冒頭には昭和天皇ご自身の強いご意思によって、明治維新の国是を定めた「五箇条の御誓文ごせいもん」が掲げられた。これは、杉浦が授業の柱として、五箇条の御誓文をとりわけ重視していたことが、背景にあったと考えられる。

杉浦は5年生3学期の「民はくに(=国)のもと」という授業で、民主主義(当時の表現では民本主義)は新しい言葉ではなく、明治天皇の五箇条の御誓文にすでに盛り込まれていたと教えていた。

昭和天皇はのちに、記者会見の場で昭和21年(1946年)の年頭詔書について、五箇条の御誓文こそがその主眼だったと強調されている(同52年〔1977年〕8月23日)。

「民主主義を採用したのは明治大帝の思し召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたので、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。……日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから」と。

そこに杉浦の講義の影響をはっきりと見て取ることができる。

御学問所を卒業された大正10年(1877年)、昭和天皇は20歳になられた。同年11月には、以前から病気を抱えていた大正天皇のご症状がより悪化されたために、摂政に就任され、天皇がなさるべきことを全て代行される立場となられた。