冷笑される「ボランティア」のほうがマシ
社会学者の仁平典宏氏は、「ボランティア」を論じた大著『「ボランティア」の誕生と終焉』(名古屋大学出版会)において、〈贈与のパラドックス〉という概念を打ち出した。平たく言えば「情けは人のためならず」の過剰さと言うべきか。贈与=何かを与えることが、「他者のため」と解釈され過ぎるあまりに、かえって、与えている側が相手や社会から何かを奪っているとすら受け取られかねない。こうした「パラドックス」=矛盾が生じる、と論じた。
このため「ボランティア」は「冷笑」にさらされやすい。それが仁平氏の論点だったのだが、PTAは「冷笑」されにくい。「ボランティア」と割り切れないからである。「子どもファースト」には誰もが賛同するほかないからである。
「ボランティア」のように、自分の「善意」で、自己責任で、自分の意志で進んで取り組んでいるのなら、「冷笑」されたとしても反発するだろう。「冷笑」されるならまだ健全だとさえ言えるのかもしれない。PTAは「冷笑」の対象にはならず、ただ避けられたり、陰口をたたかれたりしながら、子どもの在学期間をやり過ごせば忘れる程度の、そのくらいの存在感しかないのかもしれない。
識者の「正論」が正しければ正しいほど、余計に、「子どものため」とする、また別の「正論」の正しさが際立つ。法律論や原則論のほうが「冷笑」されている恐れがある。いや、「冷笑」されるなら、まだマシなのではないか。「ボランティア」のほうが、まだマシなのではないか。
現場での「面従腹背」という処世術
タダ働きなのに、その理不尽さを塗り固めるための「正論」=「子どもファースト」が持ち出される。というか、「正論」とは思われておらず、もっと純粋な「善意」にあふれている場合も少なくない。
PTAが当事者に負荷が重いばかりに、かえって部外者には他人事感が強い。さらには「ボランティア」ほどの自主性を見出せないばかりに、学者やジャーナリストの「正論」が逆効果を生み出すきらいがある。そんな袋小路を生き抜くには、どうすれば良いのか。
我慢にとどまるのでも、反発し過ぎるのでもなく、適度に仲間を見つけ、ガス抜きをしていく以外に、なかなか打開策を見つけづらい。数年間の辛抱=修行のように耐えるだけではストレスがかかるし、かといって、改革をしようと拳を振り上げても、笛吹けど踊らず孤立しかねない。
とするなら、どちらかに偏るよりも、時に批判をしつつ、ただ粛々と役割を果たす。制度を変えようとするよりも、現場でのミクロなやりとりが大切である。完全に一挙に解決しようとするよりも、運用の知恵が鍵になる。そんな面従腹背、いや、したたかな付き合いにこそ、光明を見出せるのではないか。

