天正遣欧少年使節団を迎えたローマ教会の事情

『クアトロ・ラガッツィ』が描いている外国人宣教師。彼らも日本に入ってきた人々だった。ご存じのとおり、日本にキリスト教宣教師がやって来たのはヨーロッパの大航海時代。ヨーロッパ世界にとって、ローマ帝国時代以来の本格的なグローバル化の時代だった。交易の拡大とキリスト教の布教、この2つが両輪となってグローバル化を推進した。本書は後者に焦点を当てている。キリスト教布教のために日本に来たイエズス会士たちは、まさにグローバル化の経営の矢面に立っていた。

日本に来た宣教師たちの努力によるグローバル化の一大成果が天正遣欧少年使節団だった。「4人の少年」は実に2年という歳月をかけて海路はるばるヨーロッパにたどり着き、スペインやイタリアで熱狂的歓迎を受け、ついにローマではときの教皇グレゴリオ13世と謁見するに至る。日本史の教科書的な知識では、「こんなに昔、ヨーロッパから隔絶された戦国時代の日本から、4人の少年がはるばる海を越えてヨーロッパに行きました、すごいですね、以上」という話で終わってしまう。

ところが、ローマ教会という相手の立場に立って眺めてみると、彼らの来訪は、当時のヨーロッパ、ローマ教会の側からしてみれば、日本時の想像をはるかに超えた重大極まりない出来事だった。ここが非常に面白いところなのだが、このあたりの認識が(この本を読むまでの僕を含めて)普通の日本人はほとんど理解していない。日本に来た宣教師たちが少年遣欧使節というプランを企画し、実行した経緯を、彼らの視点で見ると、グローバル化とそのマネジメントの本質が見えてくる。

日本にキリスト教が伝来したのは16世紀後半のことだった。日本に入ってきたキリスト教は、その後急速に日本の社会に浸透していく。数十年で九州の全人口の30%をこえる30万人が信者となったという。これはキリスト教の布教の歴史においても括目すべき大成功だった。初期の布教がなぜこれほど成功したのか。その答えは、戦国時代にあった日本の状況にあった。中世的な秩序が崩壊し、「なんでもあり」の下剋上の争いがあちこちで勃発した。当時の日本は弱肉強食を絵に描いたようなワイルドな社会だった。

戦国時代といえば大名同士が全国で天下取りの戦いを展開していたというダイナミックで勇ましいイメージなのだが、その時代に生きた普通の人びと暮らしたるや、悲惨としか言いようがない。家族は分散し、子女は売られ、棄て児、堕胎、間引きは公然、さらに重税、略奪、飢餓、飢饉、疫病……。相対的に秩序が保たれていたヨーロッパから来た人にすれば「生き地獄」にも見えたことだろう。ザビエルが京都に足を踏み入れたときには、死体が毎日何十体も町中に捨てられているというとんでもない状態だったらしい。

こうしたなか、キリスト教の宣教師たちは、貧窮者、病人、子供に救いの手をさしのべた。慈愛、隣人愛を説くキリスト教の教えからすれば、当然のことだった。日本で支配的な宗教としてあった仏教はというと、戦国大名の覇権争いの中で一向一揆や宗門同士の争いが絶えず、弱者救済の機能を果たすどころではなかった。自分たちが闘争の主体となってドンパチやっていたのである。そういう時代に、キリスト教が乾いた砂に水を撒いたように浸透していったのは自然の成り行きだった。

ここが最も興味深いポイントなのだが、ローマ教会側にもどうしてもグローバル化に乗り出さねばならなかった切実な事情があった。「もう国内は市場が成熟して少子高齢化でダメだからグローバル化するしかない」と言っている現在の日本とよく似た事情が当時のローマ教会のグローバル化大作戦の根幹にあったのである。

当時のカトリックとローマ教会は瀬戸際に追い込まれていた。免罪符を販売するという「救済商売」をはじめた教会にルターが抗議の声を上げ、宗教改革の嵐が吹き荒れた。カトリック教会の聖職売買、縁故主義、性的乱脈などが暴かれ、その権威は地に落ちた。ヨーロッパはルターを援護する側とカトリックを擁護する側に分断され、宗教戦争に突入した(長いところでは100年も戦っていた)。結局、カトリック側に残ったのはイタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、オーストリア、南ドイツ、ベルギーまで。カトリックはその外周に位置する北ドイツ、スイス、北欧、オランダ、イギリスなど多くの国々と信者を失った。

このような事態を受けて、総本山のローマ教会も内部からの改革に乗り出した。そのヤマ場がトレント宗教会議(1545~1563)だった。18年間という長い議論の果てに、教皇庁は大きな戦略的意思決定をする。もはやヨーロッパという旧世界だけに固執してはやっていけない。ローマ教会の失地回復は旧世界の枠組みの中では限界がある。だから、これからは世界へ打って出よう、というグローバル化の戦略である。この戦略の最前線の実働部隊が「世界のどこへでも、もっとも困難な、異教の地にこそ」福音を伝えることを第一の目的に掲げていたイエズス会だった。グレゴリオ教皇の「ピンチをチャンスに」という悲痛な意志のもと、カトリック教会は本格的なグローバル化へと舵を切った。その向かう先のひとつが日本だった。