破格のリーダー、織田信長

そのグローバル化を迎え入れた日本側での主役が織田信長だった。日本側でキリスト教という異質な他者に向かい合うときの彼の姿勢は、この人がいかに破格のリーダーだったかを如実に物語っている。キリスト教宣教師の目を通してみた織田信長の思考と行動についての記述が本書のところどころに出てくるのだが、これが最高に面白い。

当時の日本にいた宣教師たちは、信長が格と桁が違うリーダーだということをきちんと見抜いていた。「信長は何人にも、一度として外国人にも恐れを抱かなかった。彼は秀吉や家康が当時日本に住んでいた外国人に心から恐怖を抱いていたのに反して、自分自身ならびにその祖国の実力について確乎たる信念を持っていたからである」というのが、信長についての評価である。

ヨーロッパからとんでもなく進んだ文明を背負ったキリスト教が来ても、信長はまったくブレない。自己と日本の力について確信をもっていた信長は、はじめから「来るなら来い!」という姿勢で正面から外国人宣教師に向き合う。しかも、彼のキリスト教に対する構えは、徹頭徹尾リアリスティックだった。キリスト教くらいで日本という国はびくともしない、むしろいろいろ宗教があるのはいいことだ、というのが信長のスタンスだった。彼の目的はあくまでも自分の力による「天下布武」にあった。これを達成するためには、仏教の専制的支配が崩れた方がよい。それによって複数の宗教が相対化されることになれば、自分の政治にとって大いに結構だという考えだ。

本書に宣教師ルイス・フロイスが信長と最初に対面したシーンが描かれている。これが滅多矢鱈と面白い。信長の超リアリストぶりがよくわかる。面会の場所はその頃信長が建設中だった二条城。自分の屋敷ではなく、7000人以上が働く工事現場での面会が信長の選択だった。信長は造成中の堀の上にかかった橋の上に立って、フロイスを待っていた。「日が当たるから帽子をかぶるように」とフロイスに命じたうえで、信長は屋外でフロイスと2時間以上話し込んだ。

信長はフロイスに、何歳か、日本に来て何年になるのか、何年勉強をしたか、祖国に帰るつもりがあるのか、毎年ヨーロッパやインドから書簡を受け取るのか(定期的なコミュニケーションがあるのか)、ヨーロッパ、インドからの旅程はどれぐらいあるかといった、布教の段取りをとりつけたい一心のフロイスにとってはさほど重要とは思えない質問を矢継ぎ早に繰り出す。信長は相手の素性、教養、ポルトガルと日本との距離、航海技術、政治的なオーソリティとの関係など、まず事実を確認しないと本題に入らない。

一通りの事実確認が終わった後、信長は「そんな遠い国から来たのはどういう動機か」とたずねる。フロイスは日本の人々に布教したいがためだと答える。信長は、「ただそれだけのためにこれほど長い道のりを航海し、はなはだ大きな、考えるだけでも恐ろしい色々な危険を自ら進んで引き受けたのか」と重ねて問う。フロイスはそのとおりだと答える。ここで信長は喜んだ。この神父が、仏教の相対化という自分のプランの中にうまく組み込めると判断したからである。

そもそも面会場所の設定が秀逸だ。なぜ信長は建設現場の大勢の群集の中でフロイスに会ったのか。それは偵察に来た仏教の僧侶たちに対して、オープンな場所で強いメッセージを発するためだった。信長は群衆に紛れこんでいた僧侶たちを指さして、大声でこう言ったという。「そこにいるこの騙り者どもは、そなたのような輩ではない。彼らは庶民を誑かし、いかさま者、嘘つきで、尊大はなはだしく、思い上がった者どもだ」。フロイスを持ち上げることで、仏教の僧侶たちを牽制している。さすがに戦国時代を勝ち抜いたリーダーだけあって、信長はやることがいちいち型破りだ。

話をヴァリニャーノに戻す。天正遣欧少年使節はヴァリニャーノの発案だった。グローバル化戦略の前線指揮官だった彼は、このプランを日本での布教を一層前進させるための決め手として位置づけていた。その目的は3つ。ひとつは日本人にキリスト教の栄光と偉大さを見せ、それを日本人の口から日本人へと広めることによって、布教の原動力とすること。

もう1つはヨーロッパのカトリック国の王様や教皇に、日本への物質的・精神的支援を求めることだった。ヨーロッパの枢機卿や君主に生きている実際の日本人を見せる。これによって、ヴァリニャーノがさんざん報告書に書き綴った「日本人がいかにすぐれているか、いかに有能であるか」が事実であることを証明する。そうすれば、日本で布教するための資金や人材をより多く、より幅広い層から獲得できるだろう、と彼は考えた。

これらに加えてもうひとつ政治的な裏テーマがあった。教皇庁の威信回復である。考えられないくらい遠い国から、キリスト教に目覚めた位の高い人間(少年たちはいずれも大名の直系だった)がやってきて教皇に拝謁する。この事実(と、それをヨーロッパの多くの人々に実際に見てもらうこと)こそが、ローマカトリック教会の東方へのグローバル化が成功した証として世界にアピールできる。これがヴァリニャーノの構想だった。

グローバル化「される側」としての日本人にとっては、実際に「行ってみなければわからない」のがキリスト教であり、西欧の文明だった。グローバル化「する側」のヨーロッパ人にとっては、実際に「連れてきて見せなければわからない」のが日本の文明だった。少年使節をヨーロッパに送り出すというプランは、「融合」をコンセプトとするヴァリニャーノの戦略ストーリーの中で、一石で三鳥になるキラーパスとしての役割を担っていた。