サッカークラブと支援企業の齟齬はなぜ起こるのか。Jリーグで唯一消滅したクラブ・横浜フリューゲルスの前身である全日空SCの監督・塩澤敏彦は、外国人選手獲得のためアルゼンチンに飛び、有望な二人の選手を連れて帰国した。しかし、空港に着きスポーツ新聞を手に取り自身の指揮するチームの選手たちが試合をボイコットしていたことを知り、目の前が真っ暗になったという。田崎健太氏の著書『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)より紹介する――。

※本稿は、田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)の一部を再編集したものです。

アルゼンチンから帰国するとすぐ、目の前が真っ暗に

1986年3月22日、全日空SC対三菱重工業戦の翌日、関東地方は夜明け前から冷え込み、雪が舞った。

この日、一人の男が地球の裏側、南米大陸のアルゼンチンからサンパウロを経由して成田空港に戻っている。男は30時間を超える飛行時間でぐったりと疲れ切っていた。真夏の南半球から戻った身体に寒さが身にしみた。成田空港では妻が待っているという約束だった。しかし、彼女の姿がない。

自宅に電話すると、大雪で交通が麻痺しており、空港まで行けないという。それよりも、と妻は慌てた口調で「新聞を買って読んで」と言った。何のことだろう、首を傾げながらキオスクでスポーツ新聞を買った。

そこには全日空SCの選手たちがボイコットを起こしたという記事があった。自分の関わるサッカークラブはいつも潰れるのかと、塩澤敏彦は目の前が真っ暗になった。

47年生まれの塩澤は、東京、板橋区の城北高校でサッカーを始めた。

「中学校にサッカー部がなかったので高校から。関東大会は毎回出ていました。全国大会は1回、国体は2回。それで明治に入りました」

最初の躓きは、卒業に必要な単位を取得できず明治大学を4年で卒業できなかったことだ。

「もう1年か2年(大学に)いることを覚悟していたんです。その頃、学生運動が盛んで校舎が1つ、バリケードで封鎖されてしまった。授業も試験もできない。レポートを出せばいいということになり、友だちが手伝ってくれて、9月に卒業できたんです」

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内定していたトヨタ自動車は9月入社を認めなかった。そんなとき、アジアユースで同じチームだった選手から電話があった。行き場所がないのならば、自分のいる名古屋相互銀行に来ないかというのだ。そして翌70年4月、名古屋相互銀行に入行した。

名古屋相互銀行サッカー部は65年の日本リーグ(JSL)創設から参加している。ただし、常にリーグの底にへばりついていたチームだった。

塩澤が入った70年シーズンは最下位、入れ替え戦で踏みとどまり残留。翌71年シーズンも最下位、やはり入れ替え戦に回った。藤和不動産との第一戦は0対0の引き分け、二戦目は0対1で敗れた。

ちなみに藤和不動産のゴールキーパーを務めていたのは、栗本直である。降格が決定すると名古屋相互銀行はサッカー部の休部を発表した。