そもそも経済学とは何か

経済学の目標は、第1に、いかに国民全体が享受できる財やサービスを大きくするか、言い換えれば、国民全体が享受するパイをいかに大きくするかにある。そして第2に、還元されたパイを国民の間でどう分配していくかという所得分配にある。

第1の問題に比べて、第2の問題は誰にどれだけの財やサービスを配るかという価値判断が絡むため、説得力のある回答をするのが困難だ。異なる価値観があふれる近代社会において、何が公正かを決めるのは「神々の争い」だというマックス・ウェーバーの有名な言葉もある。

国民のパイをいかに大きくするかという第1の問題については、軍備や警察などの公共財のように政府の介入が必要なものはあるが、ごく大まかに言えば、自由競争に任せて社会成員に自己の利益を追求させ社会の効率を上げればよい。しかし、所得分配の問題の場合、各個人が他人の状況に共感することができなければ、公正な分配を実現できないのだ。

現在、経済学で有力な分配の正義の理論は米国の哲学者、ジョン・ロールズによるものである。ロールズによれば、社会で「公平としての正義」が成り立つのは、社会で最も恵まれないものの福祉が最大になるような状態である。

「原初状態」という、我々の生まれる前の状態を考えてみよう。原初状態の下では、我々は自分が貧乏に生まれるか、金持ちに生まれるかわからない。健康な体で生まれるかどうかもわからない。ましてや、どのような人生を送り、どのような経験をするかもわからないのだ。

自分がどう生まれるかわからない「無知のベール」の下で、公正な社会は何かと聞かれれば、「我々が最もみじめな状態で生まれたときに許容できる最上の状態が与えられる社会だ」とロールズは答える。そこで「最も恵まれない人の状態が最善になる状態」、ゲーム理論で言えば、最大の損失を最小化する「ミニマックス」(Minimax)の状態を社会的正義の目標としようというのだ。

しかし、人間は原初状態を経験しないし、「無知のベール」の下にもない。そして、人は様々な既得権益や、あるときには限界状況を抱えて生まれてくる。そのため、ロールズの「正義論」は正義の問題を考えるのに極めて重要な思考実験をしてくれるものの、同時に正義を社会的に実現することが極めて困難なことを示す学説ともなっているのである。

公正な社会の実現には寄付文化が必要だ

次のような民話を聞いたことがある。日本の山奥に寒村があり、冬は雪で山のふもとの人との連絡が不可能になる。村が雪で隔離される前にふもとの住人は、米俵を峠の登り口に置いておく。春になって峠を交通できるようになると、その米俵がどうなっているかを、ふもとの人は確かめる。米俵がそのまま残っていれば峠の住民は無事だったことになるが、消費されていれば米俵が峠の人を救ったことになる。このような民話は、日本社会にも人助けの強い伝統があることを示すのであろう。

ただ世界の統計でみると、(何を指標にするかには議論があっても)寄付文化、寄進文化が進んでいるのは、企業や実業家の寄付活動の盛んな米・英や、宗教の支えで庶民の寄進活動を支えるイスラム教の国々だ。

ザカートの概念
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