野村克也監督はなぜ名将と呼ばれるのか。その理由のひとつに、他球団で戦力外となった選手を次々と再生させたことが挙げられる。いったいどのような指導をしていたのか。ライター中溝康隆さんの新著『起死回生 逆転プロ野球人生』(新潮新書)より、一部を紹介する――。(第1回)

ドラフト10位で指名された草野球チームのエース

一時期、そのプロ野球選手は、毎晩のようにヤケ酒を飲んでいた。缶ビールのロング缶を5、6本なんてザラ。ビール大瓶なら3、4本を軽く空けてしまう酒豪だったが、右ヒジの痛みを晩酌で紛らわし、なかなか思うような起用をしてくれない首脳陣に対する不満をツマミに酒をあおった。

そんな二軍でくすぶる26歳の投手が、1年後にはトレード先でオールスター出場を果たすわけだ。まさにあの移籍がすべてを変えた。田畑一也の華麗なる逆転野球人生である。

1969(昭和44)年生まれの田畑は社会人の北陸銀行時代に右肩を痛め、その後手術。20歳にして野球部を辞め銀行も退職してしまう。実家の工務店で大工見習いに励む一方で、軟式の草野球チームで投げていたが、肩も全快し、野球にケリをつけるために受けた91年9月の福岡ダイエーホークスの入団テストに合格する。

同年のドラフト会議では全指名の最終92番目に名前を呼ばれる10位指名。当時の選手名鑑には「球速は130キロ台後半ながらキレはある」「カーブ、フォークの制球がよくなれば大化けの可能性」といった文言が並ぶが、ホークス時代の田畑は典型的な一軍半の便利屋投手だった。

好投するヤクルト先発の田畑一也投手(神宮)
写真=時事通信フォト
1999年4月22日、好投するヤクルト先発の田畑一也投手(神宮)

それでも野球に手を抜くことはなかった

4年間で通算43登板、2勝2敗。先発が無理なら、せめて勝ち試合での中継ぎで投げたいと思っても、途中からそのチャンスすらほとんどない日々が続く。なにせドラフト10番目の投手だ。同じ力なら球団は高い契約金を投資した上位指名選手を使うだろう。

間の悪いことに右ヒザを痛め、95年には右ヒジ痛にも襲われた。ようやく患部の状態が良くなったと自分では思っても、なかなか一軍に上げてもらえない。王監督はもうオレには興味がないのだろうか……練習後のビールが骨身にしみる。

一方でそんな生活を送りながらも、田畑は野球に対しては手を抜かなかった。ここで腐ったら終わりだと、必死に新球種を練習したのである。雨の日も風の日も二軍で人知れず投げ続けるチェンジアップ。先を思うと不安になるから、ひたすら目の前の白球を握った。

そして、先発起用を首脳陣に直訴していた95年の秋にトレードを告げられるのである。柳田聖人、河野亮との2対2の交換トレードで佐藤真一とともにヤクルトへ移籍。当初の注目株は外野手の佐藤で、野村克也監督も「田畑? あまり特徴のないピッチャーやな」と素っ気なかった。