「ふやけない紙ストロー」に挑戦するも断念

そもそもPHBHストローの開発はどのようにしてスタートしたのだろうか。日本ストローの場合、紙ストローからの撤退と関係がある。

ウミガメ動画拡散後、日本ストローは取引先から「紙ストローはできませんか?」との問い合わせを相次ぎ受けるようになった。すると、シバセ工業とは違い、迷わずに紙ストローの開発に乗り出した。

紙ストローに関しては当時「口触りが悪い」「すぐにふやける」といった不評が多かった。先行していた海外製紙ストローの品質に問題があったためだ。

そこで日本ストローは材料選定・品質向上に徹底的にこだわった。稲葉氏は「専用の脱臭装置を開発して接着剤の匂いを消し去り、外観にもこだわりました」と振り返る。

それがあだとなった。大規模な生産設備を導入するなどでコスト増を招き、当初見込んでいた販売数量を達成できなかったのだ。2019年暮れに販売を始めながら、早くも翌年には生産停止を余儀なくされた。

だが、日本ストローは「プランB」を用意していた。同時並行でPHBHストローの開発も進めていたのだ。

2000年以降、M&Aに翻弄された日本ストロー

1955年に富士市で創業した日本ストロー(当初の社名は三陽紙器)。牛乳栓や紙カップ、プラ容器を主力にして事業を拡大し、1983年に世界初となる伸縮ストローの生産・販売に乗り出した。

日本ストローはシバセ工業と並ぶストロー業界大手だ。ただし、創業してからずっと一族経営を続けてきたシバセ工業と違い、いくつものM&A(企業の合併・買収)に翻弄ほんろうされてきた。

・2001年、米飲料カップ大手のソロカップ傘下に入る。その後、ソロカップジャパンへ社名変更する。
・2006年、米国本社の事業再編に伴い、飲料カップ・食品容器部門を売却してストロー事業に特化する。
・2007年、投資ファンドのフェニックス・キャピタルの傘下に入る。社名を日本ストローへ変更する。
・2014年、東証プライム市場に上場するコングロマリット(複合企業)、三井松島ホールディングスの傘下に入る。

三陽紙器時代の1979年に入社し、フェニックス時代の2008年から社長を務める稲葉氏は「オーナーが目まぐるしく変わっているから、同じ会社に40年以上勤めているという感覚はあまり強くないです。ソロカップ時代にはアメリカに何度も出張しましたしね」と話す。

日本ストローの稲葉社長
筆者撮影
日本ストローの稲葉社長

ちなみに、ソロカップに持ち株を売却した創業家は稲葉一族だ。稲葉氏は「私は創業家ではありません。たまたま同名なだけです」と苦笑いする。