ライバル会社の技術者を「ブラジャーの神様」に

だが、まだ和江商事には不安要素があった。商品開発力である。

そんな中、幸一は1人の男と出会う。鐘紡に勤めながら京都女子大学で服飾史や服飾美学を教えていた玉川長一郎という人物だ。幸一より6歳年長だった。

鐘紡は繊維業界を代表する名門企業だ。戦後、下着にも力を入れ始めており、和江商事にとって強力なライバルになる可能性を秘めていた。

ここで幸一は例の“人材スカウト力”を発揮し、玉川の勧誘を始めるのだ。和江商事の技術研究部門に来ないかというのである。

この時、玉川の心を溶かしたのは、

「玉川さんには“ブラジャーの神様”になってほしいんです!」

という決め台詞だった。

歯の浮きそうな言葉だが、玉川は素直に感動し、入社を承諾してくれた。昭和28年(1953)秋のことであった。

スーツ姿の男性が握手
写真=iStock.com/Yue_
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幸一は玉川の入社を機に、同年10月、玉川を課長に据え、男子3名、女子5名からなる技術課を発足させる。渡辺あさ野もここに配属された。この時代、いくら優秀であっても、玉川よりずっと年下だった渡辺を課長にするという発想は幸一にすらない。渡辺が課長になるのは、これから10年以上後のことであった。

「デファクトスタンダート」を勝ち取る

玉川はまず、ブラジャーのサイズの見直しを始めた。

S・M・L程度のサイズ区分しかなかった日本製と違い、米国製はもっと細かくサイズ区分がなされ、カップの大きさにも大小がある。米国製はサイズが日本人の体型に合っていなかったから売れなかったが、この細やかな区分には見ならうべき点が多い。

あとはどうやって日本人の体型に合わせていくかだ。

玉川は日本女性の体型を調査するべく、洋裁学校の協力を得てデータの収集を開始した。そしてある程度のデータが集まったところで、新しいブラジャーのサイズ基準作り(カップ・グレーディング)を行っていった。

最初に制定したのはトップバストのサイズが30、32、34、36インチ、カップサイズAA、A、B、Cの組み合わせの中から13通りに絞り、これを昭和31年(1956)の春物から導入した。

ブラジャーの標準規格をいち早く導入したことによって、和江商事は業界リーダーの地位を不動のものとする。

現代の企業経営で言うところの“規格競争”において機先を制し、ブラジャーのデファクトスタンダートを勝ち取ったのだ。まさに玉川は、幸一が願ったとおり“ブラジャーの神様”になったのである。